2007年10月号
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「証し:生まれつきの殺人者? 」
私の家族は幸せでしたが、ある時全てが一変してしまいました。
私の名はジェリーといい、七人兄弟の六番目でした。父は純朴かつ親しみやすい人で、働き者でもあり、家族を充分に養っていました。また信念の人でもありました。母はけなげな女性の典型のような人で、家族全体の世話をしながら、黙々と犠牲を払うような人でした。皆が母を深く愛していました。
しかしそんなある日、私たちの畑の近くで殺人事件が起こりました。そして父が第一容疑者とされ、分離独立軍の一団に拉致されてしまったのです。この事件を早く解決したいがために、彼らは父を殴打して自白を迫りました。しかし、どんなに殴られ、たとえ命を失うことになろうとも、父は虚偽に対して妥協しようとはしませんでした。
父がいわゆる「安全の家」と呼ばれている場所に拘束されている間、親族の一人が地元の公務員に助けを求めました。感謝なことに彼らは行動を起こしてくれ、父の処刑予定日の前日に救出してくれました。
父を拉致した人々は激怒し、父を解放する前に、おまえと息子を殺してやると脅したのです。息子というのは当時まだ十七歳の私のことでした。彼らが父にした仕打ちを知った時、私はこの不当な扱いに対して、いつか復讐してやると決心しました。自分がそのためにどこへ行くべきかはわかっていました。私は共産党の武装闘争に身を投じたのです。
憎しみで一杯の青年だった私は、良心に反することすらもやってのけました。十代終わりの私は狙撃者として、何のためらいもなく人々を銃殺するまでに至っていました。
戦闘において勇敢に戦い、共産党の運動にも積極的に加わっていた私は、たった九ヵ月で地域の司令官になりました。この新しい地位において私は自ら決断し、部下たちの動きを左右できるようになったのです。
私の首に懸賞金がかけられ、おたずね者となるのは時間の問題でした。それにもかかわらず、地元の村人達は私を守ってくれました。恐れからではなく、彼らを守り、彼らのために正義を行う者として私を認めていたのです。そのことに私はいい気分になっていました。
それから二、三ヵ月後、さらに上の上司たちが私の忠実な働きに目をとめて、特殊一掃部隊に配置しました。この部隊は全員殺しの専門家で、三つの州を管轄していました。しかし、この活動に完全に参加する直前に、私の人生に思いがけないことが起こったのです。
家では母が病気になっていました。息子の私の状態を心配する余り、彼女は何度も入院するほどに患っていたのです。そのため、私は一度山岳地帯を降りて母を見舞うことにしました。私を見た母は泣き出しました。その涙は喜びと恐れの両方から出たのでしょう。
「お願いだから、ここにいておくれ。お願いだから自首しておくれ。」
母親の涙ながらの嘆願も、自分は正しいことをしていると思いこんでいた私を止めることはできませんでした。それでも、母もそして神も私をあきらめてはいなかったのです。神は母親の嘆きを聞き、涙を乾かして下さると言います。
家族を訪問してから間もなく、あるスパイが私たちの部隊に侵入してきました。共産党の司令官としての私は危機に陥り、島の中部に住む親戚の家に逃れました。そうして身を隠し続けましたが、やがて逃亡者としての自分に疲れて果ててきました。まともに生きたい、自由に歩きまわれるようになりたい、家族や愛する者と一緒にいたい、そう思うようになってきたのです。私は家に帰って同志たちと連絡を取る方法をさがす決心をしました。この時点では、今までとは違う形にせよ、部隊とつながり続けるつもりでいました。
残念なことに、私が家に帰る途中で、私の部隊がある町を攻撃し、地元警察の武器を奪い、役所に火を放ちました。こうして再び、私の部隊は政府が血まなこになって探し回るおたずね者になってしまったのです。部隊全員が逃走中でした。身の隠し方が余りにも巧妙だったため、私ですらも彼らを見つけだすことができなかったほどです。
逃げ回るのに疲れきった私はついに投降を決意しました。正しいと思うことのために何年も奮闘してきたのに、その結末が不毛だったことを悟りました。私は諦め、全てを打ち切ることにしたのです。そうして恩赦を図ってくれるであろう地元の役所に向かいました。
投降した時、誰も私を糾弾しようとする者はいませんでした。私の名はおたずね者のブラックリストのトップにあり、軍の間でも知らない者はありませんでした。それでも私は無傷で助かりました。神はある目的のために私を救われたのです。
政府は私が大学へ行くための奨学金さえ提供してくれ、私は一も二もなく喜んでその機会を受け取りました。そして大学で農学の学位をとろうと勉強している間に、キャンパス内の学生伝道の働きを通して、私は主に出会ったのです。一対一で聖書の学びを集中的に行う九ヵ月の間に、次第に神は私の世界観を変えていかれました。
卒業後、家に戻った私はその後の二年間、農業に従事しました。しかし、何かむなしい思いがぬぐいきれません。そして私の人生に対する神のご計画を知りたいと思うようになったのです。 私は答を求めて聖書を読みました。ある晩、イザヤ書六・八の御言葉に私の目が引き寄せられました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」その晩、眠れないままその御言葉を心に思い巡らし、やがてその御言葉は私自身の祈りとなっていったのです。
その頃、神は私の前に神学校へ行く道を開かれました。次の夏にその学校は「イスラム教を理解する」という特別講義を開くことになっていました。経済的な事情で受講することができなかった私は、イスラム信仰とその文化についての本を買いました。その本を初めから終わりまで読み通し、講義に出た友人と話すうちに、私は私自身が困惑するほどにイスラム教徒に対する思いが増していくのを感じました。
そのため私はこう祈りました。
「主よ、もし私がこの人々に仕えることをお望みなら、喜んで従います。私の命があなたの御手にある今、私には何も恐れるものはありません。過去に私はいろんなものに自分の人生を捧げました。でも今は私の人生をあなたにのみお捧げしたいのです!」
イスラム教徒への思いがつのっていくと同時に、多くのクリスチャン達が恐れていることもわかってきました。このことに、私の心は痛みました。神の愛を経験した私たちが彼らに伝えなければ、どうやって彼らは主を知ることができるでしょうか?
その後四年間、訓練と、さらに神が私を形作られる期間を経て、神はイスラム教徒の人々の間で主に仕えるよう、私を整えられました。又、主は私の人生と働きのパートナーとなってくれる妻も与えて下さいました。やがて主は私をOMFへそしてマリカ都市部貧民層チームへ導かれ、イスラム教徒と都市部の貧しい人々に仕えるようにされました。私の妻は幼児達のための栄養プログラムのコーディネーターと、外国人同労者のシブアノ語の学びのコーディネーターをしています。
神のみが、私のかたくなな心を柔らかくし、冷酷な男に再び愛を教えて下さることができました。神のみが、私のかつては思い上がっていた魂を変え、へりくだって神に仕えるようにできたのです。神のみが、私の不毛な人生を取り扱われ、御国のために役立つ者にすることができたのです。
私が山岳地帯でゲリラとして生きていた時も、神は私と共に歩んでおられました。そして戦闘地域でも私の命を守られたのです。神は私に御手を伸ばし、救い、かつて私が憎み脅迫した人々、しかし今は主を知ってほしいと切実に望む人々に仕えるように導いて下さったのです。
「シンガポール便り(2)」
シンガポール 菅家庄一郎、容子
シンガポール日本語集会(SJCF)の創立記念集会に参加させていただきました。私がシンガポールのDTCで一九九一年から一九九三年にかけて学んでいた頃のことを思い出しました。あれから約十五年、顧問、牧師、信徒は移り変わっても、日本語による礼拝は継続され、多くの人々が洗礼を受け、ここから新しい地へと旅立って行かれました。
創立記念集会の場では、SJCFの歴史の中には、主の祝福と同時に、多くの困難があったことも証しされました。それらの困難にもかかわらず、SJCFがここまで継続・発展できたのは、ただ主の恵みであることを一同が確認し、主の御名をほめたたえました。
中澤啓介先生は、「SJCFの活動を担ってきたのは、この教会に召された個性と賜物の豊かな信徒一人一人だった。」と述べられました。企業戦士として異国の地で戦っておられる一人一人とその家族が、教会形成の上においても、犠牲を払って、喜んで主に仕えておられる様子は、感動的であるだけでなく、聖書的です。最近のサマーキャンプでは、百十二名の子供たちが福音を聞く機会がありました。SJCFが、さらにシンガポールで日本語を話す人々に福音を届ける教会として、聖霊の力により前進していくことができるようにお祈りください。(庄一郎)
朝のチャペルの途中、芽生がやって来て、上に行くよ、と合図します。目指すは、二階に住む三歳のリタと一歳の双子ちゃんです。芽生がこんなに小さい子供たちが好きで、お世話が上手だとは知りませんでした。お母さんのグルさんは、菅家ファミリーが来てから私の生活はずっと楽になったと言ってくれます。芽生と結は、グルさんの助手となり、子供の世話の仕方からチャパティの作り方まで、色々なことを学んでいます。
DTCでは、一学期に一つの国にフォーカスを当てます。今学期はリタちゃんの国、パキスタンでした。皆で美しい民族衣装を着て、チャパティを食べ、国の状況、霊的必要について聞き、祈ります。人口の三十%以上が貧困線以下、田舎の女性の識字率は二十%程、小学校を途中でやめる子供たちの比率は世界一、人口の五十%が十五歳以下とカンボジアと類似した問題をもった国だと知りました。しかし、イスラム教国ということが大きな違いです。キリスト者はアメリカの手下というレッテルを貼られ、迫害とプレッシャーさらされています。また、イスラム教からの改宗は、大きな犠牲(時には命さえ)を余儀なくされます。もう一人DTCで学ぶA兄は、彼の改宗を快く思わない家族状況の故、国に帰れない状態です。そして、一昨日、グルさんと同じ神学校で教えていた先生夫妻が射殺されたことを聞きました。彼は、パキスタンキリスト者の重要な役割を果たす指導者でした。グルさん家族を通し、困難な中にあるパキスタンの兄弟姉妹に心と祈りが向けられました。(容子)
【祈りの課題】
1.プノンペンで学生伝道の準備をしているパサン師一家のためお祈り下さい。フィビーちゃん、マウパちゃんの健康のため、カンボジア語の上達のため、カンボジアの学生が置かれている状況把握のためお祈り下さい。
2.シンガポール日本語集会の祝福のためにお祈りください。サマースクールに集った100名以上の子供たちが、キャンプで聞いた福音を思い起こし、イエス・キリストを求め、教会に集い、救いに導かれますように。
「人は戦っているキリスト者に惹かれる」
北タイ・ミェン族 有澤達朗、たまみ
「あす様子を見に病院に行こうと思っています。自分の診察日があすなので…」との電話は教会に赴任して一年目のラーイジヤム師。彼が兼任牧会する教会の責任者が交通事故で頭蓋骨、肋骨、鎖骨を骨折し意識不明というとき、この悠長さ!「今すぐ行って病室で祈り、直ちに帰って来て教会員と祈って! ぼくは北海道聖書学院の一行と行動するので手伝えない。」(山の教会から町の病院へ五十キロ以上降りる大変さはわかるが)
聖書学院生がチェンマイ市に移動する日、つまりラーイジヤム師が奔走している間、私はもしもの事態を想定してラーイジヤム師のお兄さんでミェン族生徒寮の管理人スゥジヤム兄の所に急ぎました。「葬式となったらこれを弟先生に渡して皆で協力し、彼の司式を手伝ってあげてください。」
しかし渡しておいた牧師用葬儀式文は不要となり、代わりにラーイジヤム師はスゥリン兄が催した退院感謝礼拝で奨励。一週間という驚異的回復と退院。
これとは別に、ミェン族の開拓地のことですが、その地の最初のクリスチャンが群れのリーダーになりつつあったとき、彼は命を落としました。
成長の兆しを見せる主の働き人が暗闇の力から命を狙われているということ、また祈りによってのみ勝てるということを聖書学院の方々に知っていただく機会となりました。(達朗)
「タイは食べ物が美味しいですよ」と送り出してくださった方がいるという。その通り。タイ料理は太鼓判を押すことができる。北海道聖書学院海外研修一行はタイ料理と一部ミェン料理を満喫して帰国された。美味しいものの前後には炎天下の日中、ミェン族の村(前述のリーダーが死んだ村)で訪問伝道、祈り会や礼拝での特別賛美、証し、説教奉仕をしていただくなど、有澤流過酷なもてなしに耐えてくださった。
「祈ってきてはいましたが、実際に来て見ると、そうなのか、と祈りが具体的になります。」「この雰囲気、もう、はまってしまいますね。帰りたくない」と言わせる魅力が北タイにある。(たまみ)
【祈りの課題】
1.サッチ教会(タンマジャーリク教会)は200人の会員のうち20人が日曜の礼拝に出席し、そのうち7人の婦人だけが新生したクリスチャンです。水曜、土曜の夜の祈祷会に出席するのはこれら7人だけ。彼らのために祈祷会で本当の礼拝と訓練をし、日曜は伝道集会にする計画です。村長で教会代表役員のウワンスィヤオ氏が救われるようにお祈りください。
2.19日、チェンマイ市パヤップ大学で「母語第一の多言語教育」というセミナーがあります。ミェン族からの代表が3人参加し、幼稚園レベルからのミェン語識字教育に関心を持ち、聖書通読運動につなげるビジョンを得る機会となりますように。
「キラキラと生きる」
日本 佐味湖幸
「インドネシアはキラキラの国です。」と、今から三十数年前あるインドネシアへの宣教師の方から聞いたことを思い出した。「キラキラ」とは、「だいたい」といった感じか。何でも日本人のように詳細を気にしない、時間もゆったりとだいたいでいく。AFMC5大会後、私たち日本人は二つのグループに別れ、横山先生グループは中央ジャワへ、私と他の五人はジャカルタ周辺での宣教の働きを視察した。ここで私たちは、まさしく「キラキラ」のインドネシア人の働き人と出会った。一日目の夜お会いし、二日目は丸一日お世話になった。六時に夕食を持ってきてくださるはずが、実際には、七時頃到着…と言った調子。「佐味先生、明日何時出発ですか?」と質問されても、「キラキラ八時ということで…」と答えたが、九時頃出発!
しかし、このキラキラおじさん(失礼!)、そして、その宣教チームの方々は、本当にキラキラしておられた。キリスト教に対し敵意を抱いている人々、宣教師として働くことが許されない暗闇のような地で、主の光をまさにキラキラと輝かせ、その証と働きには圧倒された。働き人たちは職業をもって、遣わされた地域に入って行き、その地域の人々と仕事を通して、コンタクトを作る。人間関係を築きながら、福音をお分かちする機会をもつという。明確なヴィジョンと毎年「何人の人に福音を伝え」、「何人の人が信仰決心をし、洗礼を受けるようになる」と具体的なゴールを定める。救われた者は次々と群れ(教会)を作っていく。そして、その教会はネズミ算式に増えていくのだ。ある働き人は、伝道をしていたということで、五回も牢に入れられたことがあるというが、今尚、その伝道の働きを大胆にしている。証を聞きながら、まるで「使徒の働き」時代の証を聞いているようだと感じた。
この方々の証を熱心に聞き入っていた日本人の若者たち、主の前に自分の今の生き方を問われ、今後のことも考えさせられたようだ。どこへどのような形で遣わされても、主のためにキラキラと生きて欲しいと願わされた。
【祈りの課題】
1.AFMC5のために、主の守りと祝福を感謝。それぞれ参加した者が、学んだこと、主の語られたことをこれからの生活の中で実践していけるように。また、宣教の働きのために召される人が起こされるように。
2.来年前半に行なわれる宣教ツアー、短期宣教の準備のために。また、ふさわしい方々が参加できるように。
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