フィリピン短期宣教プログラムに参加して 廣田 真佳
短期宣教プログラム 2009年8月24日―9月5日(廣田)、12日(坂西)
今回の短期宣教プログラムは南フィリピンのOMF都市貧民宣教チームに廣田さんと坂西君が参加しました(引率、佐味主事)。
「川の流れ」という名前のコミュニティーでは、その地域の部族の言葉を習い、廣田さんは得意の美術を坂西君はギターや遊びを通して、地域の子供たちと良い交わりが与えられました。また、その他にも、ホームレスの家族、夜の商売をしている人々、回教徒の貧しいコミュニティーの幼稚園などで、「行って、友になる」ミニストリーに参加し、様々なことを教えられました。
主の御名を賛美致します。
たった2週間という短い期間でしたが、不思議と主に導かれ、私はフィリピンに行くことができました。日程やお金、語学力、そして進路等、行く前に様々な問題がありました。しかし、それでも!という気持ちを持って一歩前に進もうとした時、主は私を助けて下さり、行けるように取りはからって下さいました。
フィリピンでの体験は初めての事ばかりで驚き惑う事も多々ありましたが、全ての事、一つ一つが私にとっては新鮮でまた面白く楽しいと感じまた学ばされることばかりでした。
フィリピンで私はMUPTという都市の貧困層等のフィリピンで低く見られている人たちのために働いているチームに加わって一緒に働きをしました。私がした事といったら、子ども達と一緒に遊んだ。この一言につきます。しかし、MUPTは、そういった一緒に過ごす・関係を築くということを通して神様の愛を伝えていました。そのようなMUPTに加わってフィリピンで過ごす日々は楽しく目まぐるしく過ぎていき、何かに対して特に思い悩むといったことはあまりありませんでした。
しかし、その中でひとつ思い悩んだことがありました。正確には一番頭を使って考えたことです。そしてその時のことがとても強く記憶に残っています。それは・・・フィリピンを去る前にチームで反省会をもった時のことです。反省会では自分が神様から語られたことや異文化についてMUPTについて自分が考えたことや感じたことを話します。その時に私はある質問をしました。あるマイノリティーの人たちに対しての質問です。「実際に彼らにどう接するかではなく、聖書には彼らはハッキリと罪人だということが書かれているけれどその事についてどう考えていますか?」というような質問です。(自分でもどんな言い方をしたか正確には覚えていないのですが・・・)それに対してある一人の宣教師がこんな風に答えくれました。「イエス様がそういう人たちの元へ行って食事したり、共にすごしたりした。だから私たちもそうするんだ。」この言葉にその時私はすごくはっとさせられました。でも、その時は何故この言葉にはっとさせられたのかよくわかりませんでした。
フィリピンから帰ってきてこの事を考えていた時に気がつかされたことがあります。どこか自分は上から?の目線でいた、ということです。自分はクリスチャンとして愛を伝える者・愛する者としていったからMUPTが関わっている人たちのことを理解しているつもりでした、私は彼らを受け入れているつもりでした、短期でしたが、そういった心づもりで行ったからです。先ほど、聖書にはハッキリ罪人だと書いてある、ということを私はいいました。でも、聖書にはハッキリと、私も罪人であると書いてあります。誰かのほうがもっと罪人だなんてことは聖書には書いてありません。私はただ、先に信じる者となったということだけです。そんな簡単なことを私は心で理解していませんでした。
イエス様は上ではなく同じところに下がってきて下さいました。私はそれをしていなかったと思います。しかもそうであることに気がついていませんでした。寄り添っているという気分になってただけなのではないかと思います。それは本当に寄り添っているというのでしょうか。
その事に気がついた時に祈りました。「神様、どうか私を低い者としてください。私の高いプライドを打ち壊し、本当に同じ目線に立つ事を教えて下さい。」神様の愛で愛するということはそういうことなのではないでしょうか。
比べている自分がいました。比較して差別している自分がいました。どこかで見下しているような自分がいました。彼らは罪人だ、まだ罪の中にいる人々だ、と。彼らが罪人だというその事は事実です。けれど、その事と見下すことは違います。本当に寄り添って同じところに降りていく、イエス様がそういう人たちの元へ行って食事したり、共にすごしたりした。だから私たちもそうする。私もそうすることをする者になりたいです。
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみを好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来たのです。」〈マタイ9:10-13〉
共にいてくださる主 坂西 信悟
短期宣教プログラム 2009年8月24日―9月5日(廣田)、12日(坂西)
今回の短期宣教プログラムは南フィリピンのOMF都市貧民宣教チームに廣田さんと坂西君が参加しました(引率、佐味主事)。
「川の流れ」という名前のコミュニティーでは、その地域の部族の言葉を習い、廣田さんは得意の美術を坂西君はギターや遊びを通して、地域の子供たちと良い交わりが与えられました。また、その他にも、ホームレスの家族、夜の商売をしている人々、回教徒の貧しいコミュニティーの幼稚園などで、「行って、友になる」ミニストリーに参加し、様々なことを教えられました。
私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 I コリント9:23
フィリピンに到着した翌朝、ディボーションで与えられたみことばです。福音を言葉で伝えることをしない働きに参加するけれど、すべてのことを福音のためにしよう、このみことばを握って3週間を過ごすのだと決めました。
ぼくが参加したMUPT(Malikha Urban Poor Team)の働きを簡単に言うならば「隣人になる働き」「共に歩む働き」でした。助けが必要な人のところに行き、隣人となる。もしかすると、ほとんどの人は関わろうとしないような人のところに行って友となる。そのような働きをしていました。異教の貧しいコミュニティ、ホームレス、夜の仕事をしているgay(おかま)の人。ぼくにとって、初めての経験が多くありました。
gayの人たちとの交わりは衝撃的でした。夜、街に出かけ、彼女たちがお客さんを探しているポイントに行き、話をする。日本にいた時には関わったこともなければ、関わろうとしたこともなかった人との交わりは様々なことを考えさせられる時でした。自分はどうしてイエスさまがいのちを捨てるほどに愛した人を愛さないのか。社会的にも低く見られ、聖書にはっきりと罪と書かれている、そのような仕事をしている彼女たちをどこかで否定し、自分はまるで聖いものであるかのように考えてしまっている自分はいったい何者なのか。先に救われた者なのに、福音を受け入れたものなのに、どうして彼女たちの隣人になろうとしないのか。イエスさまは「失われた人を捜して救うために来た」方であるのに。気づかないうちに自分が福音を小さくしていたのだと思わされました。そして、gayの人たちに対してだけではなく、他にもたくさん目に留めようとしなかった人、隣人になろうとしなかった人がいることに気づかされたのです。
ホームレスの子どもたちとの交わりも何度か持つことができました。この働きは、ぼくのやりたいと願っていた働きでした。この働きをする中で、自分は日本に帰るのであり、彼らと共に住むことはできないと感じました。しかし、そのとき改めて共に住んでくださる方がいることを思わされたのです。ぼくといつも共にいてくださるイエスさまは彼らとも共に住むために神であるのに人となって生まれ、十字架にかかって死んでくださった。遠くのほうで見ているような方ではない。共にいてくださる方だ。インマヌエルなのだ。なんてすばらしい知らせなのだろうか。そのように感じました。彼らを救ってくださいという祈りがあふれてきました。そして、イエスさまに希望があるのだと思わされました。
帰りの飛行機の中、3週間を振り返り、祈っているとみことばが浮かんできました。
全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。 マルコ16:15
「全世界」とはどこなのだろう。もしかするとすぐ近くかもしれない。でも「出て行く」のだ。また、「すべての造られた者」なのだ。たとえ異教の人であってもgayの人であっても。隣人になるのだ。そして「福音」をもっともっと知り、その恵みを受け、味わい、宣べ伝える人生を送りたいと思わされました。
イエスさまは確かにぼくと共にいてくださり、生きて働いてくださる方であることを覚えて、感謝します。
Bukang Liwayway(夜明け) ministryを体験して 中出 潤一・真理
2009年4月末から5月にかけての2週間、マニラの神学校で学んでおられる中出さん夫妻は、『ブーカンリ―ワイワイ(夜明け)』と呼ばれる都市貧民の中での働きを経験されました。カナダからのOMF宣教師ホッブ師が1990年代後半に始めた働きですが、今はフィリピン人の働き人たちの手に引きつかれ、マニラのあちらこちらのスラム街で働きが展開されています。教会開拓とともに、全人的宣教という観点から、地域開発、幼児教育、医療活動、奨学金制度など、様々な活動がなされ、神様の愛をことばと行いで表しています。佐味湖幸
素晴らしい主の御名を賛美します!!
私たちは2006年6月から、マニラの神学校で学んでいます。去年、『キリストの体の一部だけではなく、全体を知ろうとしなければならない。』とチャレンジが与えられ、心の中に残っていました。2週間という短い間でしたが、マニラのUrban Poor(都市貧民)と呼ばれる地域へのミニストリーを体験することが出来たことを心から感謝しています。
“クリスチャンとしていかに生きるか?”信号待ち、パン屋、レストランの出口、町を歩いている時、“何かちょうだい”と手を出す大人、子どもに出会います。買ったパンを2つ3つ分けたり、信号待ちでトラクトとクラッカーをあげたこともありました。しかし、“これが、この人にどんな変化を与えるのか?”という疑問がいつも残りました。BLの目標は、貧しい人たちの生き方にイエス・キリストによる変革をもたらそうというものです。一時的なものではなく、その人と継続的に関わり、霊的必要、教育、医療、生活環境様々な必要に目を向ける、ホリスティック(全人的)ミニストリーでした。
ここが家?というような地下の窓も無い空気の悪い家に、昨日血を吐いたという子どもが咳をしながら寝ていました。医療宣教師が状況を聞き、薬を処方し、リーダーが無料のクリニックに連れて行くと約束していました。6年間、腎臓の病で苦しんでいる青年を訪問しました。狭い家に4人だけが入り、あとは窓から顔を出して、みんなで祈って、励ましていました。リーダーが神学校の授業で学んだことを活かし、咳止めシロップや、その辺に生えている葉っぱを使って傷薬の作り方を教えていました。ジープニーに揺られ、デコボコ道を歩き、泥の道を越え、誰も訪れないような地域に出向き、神の愛を通して人々を見つめ、必要を見いだし、助けの手を差し伸べ、聖書の御言葉を届け、祝福を祈る。本当に尊い働きでした。
青年牧師に、『タガログが話せないし、何か特別にできることも無い。何をしたらいいのか?とずっと考えていました。』と言いました。すると、『こうやって外国の人が来ると、町の人たちに「なんでこんな貧しいとこに来るんだ?」と聞かれます。ボクは「神様があなたたちを愛しているからだよ」と答えるんです。あなたの存在が神の愛のしるしです。来てくださってありがとうございます。』とおっしゃってくださいました。
クリスチャン一人一人は、神の愛の大使として遣わされているのだと教えられました。隣人に関心を持ち、共に生きることの大切さ。クリスチャンとして、人々にインパクトを与える生き方。全く違う文化、環境でのミニストリーを通して、神様の愛の大きさを改めて感じるとともに、大きなチャレンジを与えられました。
『いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神の愛は私たちのうちに全うされるのです。』1ヨハネ4:12
証 笹岡 祐
短期宣教プログラム フィリピン宣教旅行2009年3月18日~31日
今回のフィリピン短期宣教旅行は私の古巣、ミンドロ島のミンドロバイブルカレッジとピリ聖書教会を訪ねました。
ピリ聖書教会は地域開発の様々なプロジェクトが行われ、近隣の村々に教会開拓がなされ、また町の拘置所でも伝道がさなれるなど、田舎の教会ですが、多くの宣教活動を活発に行っています。
笹岡君と前田さんはそれらの活動に参加し、トラクト配布や証、特別賛美の奉仕をしたり、教会や地域の方々と素晴らしい交わりの時を過ごし、神様から多くの恵みをいただきました。どうぞ、証をお読みください。
日本委員会主事 佐味湖幸
僕はいつも、自分の現状に満足出来ないでいました。よく言えば向上心の強い人間だったのかもしれません。このフィリピン短期宣教ツアーに参加したのも、「自分が」もっと成長させられたい、「自分が」もっと良い経験をしたい、そんな気持ちからでした。
僕が最初フィリピンの人々に持っていたイメージは、心が豊か、ということでした。経済的に貧しい中で、人々が力を合わせて生きている。そんな人々と共に過ごすことは、自分の心に良い影響を与えるに違いない、そう思っていました。
しかし現地で生活をし、話を聞くことや実際に見ることによって僕が少しずつ気付いたことは、そんなイメージとはまったく違うものでした。多くの人々が苦しんでいました。
一度、現地の牧師とともにクリスチャンの家庭を回り、祈る時を持ったことがありました。ある婦人の家に行き、牧師が彼女の最近を尋ねるような会話をしていました。僕に言葉はわかりませんでしたが、彼女の感じている悲しみ、不安、それらをひしひしと感じました。彼女の悲しげな表情、声、それらは忘れることが出来ないと思います。
また多くの人々が、自分への自信を失っていました。自分たちには力が無い、自分たちは何も出来ない、そんな彼らの低いセルフイメージは、僕に大きな衝撃を与えました。
現地の学校で折り紙を教えていたことがありました。楽しんでやるようなそんなことでさえ、途中であきらめ、投げ出してしまう子ども達が多くいました。
そして同時に、偉大な主の力が働いていることも知りました。人々がみことばにより変えられているところを見ることが出来ました。自分のことをどう思おうと、自分たちは主に愛されているということ。自分たちがどれだけ無力であっても、主には力があるということ。それを信じる人々が変えられ、自分たちで仕事をし、主が見られるように自分たちを見ていること、それは僕にとって大きな喜びでした。
そしてこれらのことはすべて、フィリピンだけの話ではないと思っています。フィリピンであろうと日本であろうと、多くの人々が傷付き、主を必要としています。そして先進国であろうと途上国であろうと、主の力により頼み、変えられる事によって、本当の意味での豊かさが与えられるのだと思います。
僕自身もこのツアーや、多くの主の導きによって、変えられる喜びを経験しました。主に力が与えられる経験もしました。
このツアーは、僕の人生に大きな影響を与えるものだと思っています。神さまへの愛が、人々への愛が与えられました。主の偉大さを知ることにより、義務でも責任感でもない神さまへの感謝、賛美があふれています。人々の渇き、そして主の満たしを知ったことによって、彼らにこの喜びを伝えたい思いが与えられています。
僕がこの先進むべき場所がどこなのかわかりません。しかし主が遣わしてくださる場所で、僕が知ったこの喜びを分かち合うものでありたいと思っています。
フィリピン 証 前田 幸
短期宣教プログラム フィリピン宣教旅行2009年3月18日~31日
今回のフィリピン短期宣教旅行は私の古巣、ミンドロ島のミンドロバイブルカレッジとピリ聖書教会を訪ねました。
ピリ聖書教会は地域開発の様々なプロジェクトが行われ、近隣の村々に教会開拓がなされ、また町の拘置所でも伝道がさなれるなど、田舎の教会ですが、多くの宣教活動を活発に行っています。
笹岡君と前田さんはそれらの活動に参加し、トラクト配布や証、特別賛美の奉仕をしたり、教会や地域の方々と素晴らしい交わりの時を過ごし、神様から多くの恵みをいただきました。どうぞ、証をお読みください。
日本委員会主事 佐味湖幸
今回こうして短期宣教プログラムに参加する機会が与えられたことを、心から感謝しています。神様が私の知らない新しい地を見せて下さったことで、祈りの視野が広がりました。
現地では、アガペー子供開発センターの卒園式に出席したり、ミンドロバイブルカレッジの卒業式に出席したり、教会の人たちと一緒にトラクトを配布したり、宣教師の先生のお話を伺ったり、高校で救いの証をして折り紙を教えたり、拘置所で救いの証と賛美をしたり、たくさんの貴重な体験ができました。一つ一つの体験を通して、神様は様々なことを語ってくださいました。
ミンドロ島の方々は、本当に親切で温かい方ばかりでした。英語が全く話せない私に積極的に話しかけて下さったり、おいしい料理をごちそうしてくださったり、心から私たちを歓迎してくださいました。その方たちの姿を見て、私は自分の教会に新しい人たちが来たとき、心から喜んで歓迎できているのだろうかと問われたような気がしました。私は自分から人に話しかけたりすることがとても苦手だけれど、自分が歓迎する側になったときは、温かく迎えられる人になりたいです。
ピリ教会の方々はとても伝道熱心で、クリスチャンではない方にも大胆に福音を証していました。彼らは自分たちの目線から押し付けの伝道をするのではなく、相手に寄り添って伝道をしていて、その姿にとても感銘を受けました。私も日々の生活の中で友達に伝道をしたいと思い、教会やKGKのことをよく話していましたが、押しつけの伝道になっていたのではないかと思いました。私も、彼らのように相手に寄り添った伝道をできるようになりたいです。
この地域の人たちはとても貧しく、クロスステッチプロジェクトが始まるまでは毎日十分な食事をできない人たちがたくさんいたそうです。家も竹の家などが多く、日本とはまるで生活レベルが異なり、激しいカルチャーショックを受けました。私は以前パン屋でアルバイトをしていたことがあるのですが、余ったパンはいつも廃棄していました。その量はゴミ袋数個に及び、いつも「こんなにたくさんのパンがあれば、世界中の貧しい人たちの空腹を満たすことができるのに」と、とても悲しい気持ちになっていたことを思い出しました。日本のような先進国は、本当に物を無駄にしているなとつくづく感じます。
教会には壊れかけていていくつかの鍵盤の音が出ないキーボードがあったのですが、教会の人たちはそのキーボードをとても大切そうに使っていました。この人たちは貧しい中にいるからこそ、きっと物を大切にする心が強いのだと思います。物質的に私は十分富んでいるはずなのに、今持っているもので満足できない自分をとても情けなく感じました。彼らの姿から、神様が与えて下さったものに感謝してそれを大切にする心を教えられました。
私たちの泊まったミンドロバイブルカレッジは、お世辞にもきれいとは言える場所ではありませんでした。ピナマラヤンでの生活が終わりカラパンのOMFに行ったとき、とてもきれいな場所だったので心が落ち着いたのですが、そう感じた自分にとても罪悪感を抱きました。あそこの人たちはあそこでの生活が普通なのに、きれいなところにいて安心するということは、あの人たちの住んでいるところを馬鹿にしているのではないかと思ったからです。夜の分かち合いの時にそのことを先生に話したら、「きれいな場所にいるときはそこにいられることに感謝して、違う生活レベルのところに行ったときはその人たちに合わせた生活をすればいいのだと思うよ」と言ってくださって、とても励まされました。自分を責めるよりも神様を見上げて、絶えず感謝できる人になりたいなと思いました。
今回のプログラムを通して一番考えたことは、貧困や格差問題についてでした。私は大学で社会福祉を専攻していて、国際協力にも昔から関心があったけれど、このような問題は考えても考えても答えが出るものではありません。「どうしたらすべての人が平等な生活ができるのだろう?」それは、すべての人が貧しい生活をするしか方法はないのではないかと思ってしまいます。先進国の豊かな生活は、途上国があることによって成り立っているのですから。そう思うととっても悲しくなります。生まれた場所でどのような生活レベルで生きていくかが決まってしまうのは過酷な現実です。
でも、どんな人も神様に愛されて生まれてきたかけがえのない大切な人です。そう思えば、現実だけを見て諦めてはいけないと思わさせられます。すべての人を救うことはできないかもしれないけれど、私たちのちょっとした勇気や行動で救うことができる人は必ずいるはずです。私の持っている物すべてを貧しい人たちに分け与えることはできないけれど、必要以上を求めないで、少しでも何かを分け与えられる人になりたいです。
これからも、ずっとフィリピンのことを覚えて祈っていきます。
目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい 佐藤 恵理華
美しく開墾された段々畑、手の込んだ民族衣装に身を包み元気に手工芸品を売り歩く人々、何かを燻したような村独特の家庭のにおい。自然豊かな山の生活をする人達の間を歩きながら、私たちの祈りは続いてた。村の人達は旅人が家に入るのを拒まない。私たちも現地スタッフに案内されて、祈りつつ中に入ってみると、そこは異教の神にささげられた祈りの跡でいっぱいだった。その家が昼でも暗いのは、日差しが入らないからではない。村の人達にとって、神の存在は非常に現実的で生活に密着している様子だった。彼らが恐れて拝んでいる霊が、災いを起こし、人が餌食とならないよう、私たちは一軒一軒のために主に願わなくてはいけなかった。時々立ち止まり…賛美をささげつつ…。
収穫した米が置かれた所に張られた古いまじないの紙を見ると、「この自然を動かし、あなたを養っていてくださるお方は天の父ですよー!」と叫びたくなった。しかし、神様が分からず他の存在を頼りとしている罪は自分にも当てはまることだった。とりなしの祈りは悔い改めを迫られる。私たちは憐れんでくださる主に願い続けた。その間に見せられる自然の美しさは神様からの慰めだった。
ある家で、現地スタッフの姉妹に一人の神の家族を紹介された。祈りによって病が癒されたことを通してイエス・キリストを信じた婦人は、今は平安を得て過ごしている。彼女の周りには聖書も教会も無く、イエス様と自分ひとりの信仰生活だ。彼女の信仰を支えているのは、主ご自身。その主は、遠くから彼女のために祈るように私たちを導いてくださった。福音の未開拓地にあって信仰を守っている婦人を通して主は栄光を現された。彼女の信仰生活に祝福があるように、再び病の試練が訪れても信仰を捨てることがないように、私たちは強く主に祈った。
聞くところよると、村で病死する人はよくいるけれど、何の病気かは誰も答えられないという。どんな種のものでも彼らの言葉では「病気」であり、その原因を「霊」や「運」として片付けてしまうことが多いそうだ。そのため、軽い病気でも適切な対処がされないために命を落とすことも珍しくないらしい。対処できない領域を「神の領域」として受け止めているのだろうが、私たちは重荷を背負って拠所を求めるような表情にたくさん出会った。
イエス様が村々をめぐって人々を癒された場所の様子はこんな感じだったのかもしれない。今ここで福音が語られるなら、これらの人々はその救いを求めるだろう。主もそれを願って伝える者を備えられ、この地のために祈りを求めておられるのだと思う。彼らが福音を聞くとき、心を開いて受け入れられるようにと祈りつつ、これからの国の変化に、期待している。祈る特権を与えてくださった真実な主をあがめつつ。
2009年2月祈りの旅に参加して 谷淵 麻子
今回、この祈りの旅に参加する機会を与えて頂きましたことを心から感謝します。
実は、出発前から体調が非常に悪く、キャンセルしなければならないかと思ったこともありました。しかし、「キャンセルすることが御心ではない。」との思いで、佐味先生達に特別に祈って頂き、出発しました。
行った当初は、起き上がるのもしんどいほどフラフラで、大変でした。自分の体が悪い時は、自分の意志の力ではどうしようもないことを改めて痛感しました。一緒に行った方々や現地でお会いした方々に、本当に親切にケアして頂き、ホテルで休んでいることが多かったです。祈りに祈られて、少しずつ強められていきました。自分で何かしたわけではないのに、元気になっていく過程に「祈りの力」を感じました。一緒に行った方々の愛に深く慰められました。
現地では、様々な立場の方が制約がいろいろある中で、連携して忠実に奉仕され、神様の働きが進められて言っている様子を垣間見ることができました。迫害もある中で、話だけ聞いていたら、「どんなに大変だろう。しんどいだろう。」と感じてしまうような状況の中で、お会いした方々は聖霊に満たされたHappy Christiansでした。この国を愛し、主に愛され、主により頼んで信仰によって働きを進めてこられたからこその力強さを感じました。特に、現地でガイド役をしてくれたAさんは、山岳民族の方々を訪問し、愛をもってお一人お一人に接し、ご自分が救われた様子を笑顔で語ってくださいました。彼女のような方をこの地で初穂として主イエス様がお救いになり、確実な働きを進めていらっしゃると感じました。また。彼女と協力して働いておられる宣教師のBさんにも非常に感銘を受けました。年は私より下なのに、相手を受け入れる深い度量があり、Aさんと本当の姉妹のように仲が良く、この国を深く愛し働きを起こし、進めていらっしゃいます。
また、勉強不足で行く前まで山岳民族の人達のことを全然知らなかったのですが、それぞれの民族の文化の深さや豊さにも圧倒されました。染色や機織りの技術や様々な工芸などが失われておらず、自分の着る服を全部自分達が作れるだけでもすごいことだと思います。また、そういった伝統の日本とのつながりも感じました。こういう工芸品などを観光客に子供までが売り歩く様子に考えさせられもしました。Aさんのような文化を深く理解するこの国のクリスチャンが中心になって、神様の働きが山岳民族の方々にも進められていくよう祈っていきたいです。
自分の弱さと神様の大いなる働きの両方を徹底的に見せられた祈りの旅になりました。帰国してからも聖書のパウロや黙示録の弱さに言及する聖書の箇所が目に留まります。神様はご自分の働きを「力強さ」に求められているのではないことも示されています。これから祈っていって、本当に主イエス様が求められている召命の道を忠実に歩んでいけたらと願っています。お祈りをよろしくお願い致します。
祈りの旅に参加して 杉下 陽子
「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあってなんと美しいことよ」(イザヤ書52:7)
これは、今回の祈りの旅に参加するかどうかの確信を求めて祈っていた時に、神様が私に与えてくださった御言葉です。それでも元々気が小さく、体調面などでも不安があり祈っていた時、神様は更に次のように語ってくださいました:
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け(ある英語訳ではan Vever-present help, an abundantly available help. つまり、いつもそこに豊かに備えられている助け、とあります)。それゆえ、われらは恐れない」(詩篇46:1~2a)
出発の数日前再び懲りずに恐れに襲われ、心の中で嵐のように暴風雨が起こってきた中ふと気付くと私の心の深ーい所にこの約束から来る平安があったことは自分でも驚きでした。この約束の言葉を握って、2月9日(月)~17日(火)まで祈りの旅に行かせていただきました。
祈りの旅ということ自体が私にとって初めての体験でしたが、神様が多くを教えてくださいました。その日その日主が私たちを導かれた所を巡り歩き、目に入るもの、心や頭に浮かんだことを祈る…手製のお土産品を購入してもらおうと、“観光客”の私たちに同行して歩いてくれる現地の人々(彼らのほとんどは多少なりとも観光英語が話せたので、色々な話をすることができました)と交流しながら、彼らの文化や背景についての情報を得て祈ること…主が造られた素晴らしい大自然を前にただ主を賛美すること…まだ本当の神様のことを聞いたことがない、もしくは信じていないけれども、主ご自身が彼らのことをどれほど愛して「救いたい」と思っておられるか…その御思いに少しでもあわされて、祈りが与えられたというのが実感です。また目が開かれたのは、こういった形で祈ることは日本にいてもできることなのだということです。愚かにも今までそれに気づきませんでしたが、自分の住んでいる近隣やまた教会の地域を歩く時、きっと神様が同じように何を祈るべきかを教えてくださり、それが周囲の人々の救いにつながる一歩になるだろうと思うのです。
また、私たちの思いを超えた神様の不思議な方法によってこの国で救われ、信仰を守り、力強く証ししている方々の存在を知ることができたことも大きな励ましでした。人間的に私が「困難だ」「無理だ」と捉えてしまう状況は、実は全知全能の神様にとっては全く難しいことではなく、見方を神様の視線にシフトすれば可能性がたくさんあることを教えられました。限界を作ってしまうのはいつも自分なんですね。
祈りの旅は1週間で終わりましたが、私の祈りの歩みはこれからも続けていくことができることを思います。日本にはアジア人も含め多くの外国人がいますし、彼らの中には母国では福音を聞くこと・信じることなどが難しい人々もいます。自由に伝道することが許されている日本は、収穫の可能性に満ちています。海の向こうに行かなくとも、この地も異文化宣教地です。そんな彼らの救いを祈りに覚えること、機会が与えられるなら彼らと友だちになること、彼らの国や文化について知ること、そんなスピリットを忘れずにいきたいと思わされています。もちろんまだ救われていない約99%もの同胞のことも祈りに覚えながら。
この素晴らしい恵みの機会を与えてくださった主に心から感謝します。
主の備えと、応える覚悟 佐藤 恵里華(その1)
北タイで有澤宣教師御夫妻の担うミェン族の宣教の働きに参加させていただいて、5ヶ月が経ちました。これまでに一生分の出会いが一度にあったかと思えるくらいに多くの人と出会いました。お互いをタイ名やミェン名やあだ名で呼びあい、私もアリカン(タイ名)、ナイフィン(ミェン名)、アーリー(あだ名)と命名されました。兄弟姉妹(後の兄弟姉妹)の存在を通して、主が生きて働き、導いてくださっていることを見せられています。その尊い一人ひとりは主が備えてくださった大切な隣人です。
~家庭教師はミェン人のクリスチャン~
こちらに来るまで、すぐそばに先生が備えられているとは思いもしませんでした。有澤宅に到着したその日に挨拶をした婦人は、神様と同族のミェン族を愛するクリスチャンでした。彼女は、これから宣教に参加しようとする者を助けたいと、喜んでタイ語を教えてくださることになりました。子育てをしながらでも仕事ができることは彼女にとっても好都合で、彼女自身も主に感謝していました。出足から短期奉仕期間をともに歩む励まし手が与えられ、「アドナイ・イルエ!(主の山に備えあり)」と、真実な主に感謝しました。
しかし、学びを始めて3~4ヶ月が経ってもタイ語が口から出てこなかったときには、いよいよ悲しくなってきました。主が導いてくださって始められたことなので、私の意志で止めることもできません。有澤先生はあらゆるアドバイスを下さり、たまみ先生は「語学の学びは一生ものであるのだから」と、励ましてくださいました。祈っていただき、学びを続けるうちに、ようやく耳がタイ語に慣れてきた気がしています。
今ではタイ語で「主のいのり」をして授業を始めています。なかなかタイ語が身につかない私でもこの祈りだけは、先生と心を合わせて祈ることができます。ことばを与えてくださった神様に求め、備えられた先生達に助けられて、学びは続いています。
~識字教育に集められた将来の教会リーダー達~
初めの4ヶ月は、午前のタイ語の学びが終わると、古いミェン語の本をパソコンに打ち込みました。ミェンの人に聖書を読んでもらう一心で始められた識字教育のための本は、時代を感じるものでした。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(1コリント3:6)」
手渡された何冊かを眺めて、続けられている主の働きを、次は自分の世代が担うことを実感しました。タイピングは自分でも驚くほどゆっくり進行しました。慣れないタイ文字を20フォントに大きくして、ミスタイプをしていないかを確かめながら進めるのですが、祈り無しにはできませんでした。
地道な作業を続けていたある日、時に適って、識字教育クラブが始められることになりました。初日は、有澤先生が教えている大学の教室にミェン族の学生達やOGが4人、5人…と集まってきました。誰でも参加できるクラブでしたが集まったのは皆クリスチャンでした。初めは識字教育について聞いたことも無かった人や、ミェン語が少しずつ忘れられていっている現状にさほど問題意識を持っていなかった学生も、クラブ活動を通して母語の復旧に少しづつ興味を持ち始めたようでした。
日本で宣教状況を聞いて祈っていた時は、識字教育のための準備が早くもこの短期奉仕期間中に始められ、自分も参加できるとは予想していませんでした。しかし、ここに来て、実際にこれから識字教育のプロジェクトを進めていくことになる学生達を目のあたりにして、主が進められているわざは主のペースで実現していくことを実感しました。皆はそこまで考えないで楽しく参加していたのかもしれません。しかし、確かに主が集められた一人ひとりです。皆があらゆる仕方でミェン族宣教の一端を担っていくことを信じて祈りました。こうして又仲間が与えられたことによって励まされ、その後のタイピングの仕事はクラブ活動の準備と祈りの時間となりました。
(その2につづく)
主の備えと、応える覚悟 佐藤 恵里華(その2)
~主の喜びである子供達~
週末にはミェン族の生徒寮を訪ねます。底抜けに明るいテン、静かに人を気遣うジェルナン、人を笑わせるのが大好きなガオジョイ、ギターが大好きなプルサート…賜物豊かな小学生から高校生の31人が学校に行くために親元を離れて「ミラクル寮」で生活しています。
ある日の祈り会でのこと。祈りについて聖書から分かち合った後にグループに分かれて祈った時、サクチャイが「勉強ができるように」と、涙を流して祈りました。自分の弱さを友達と一緒に主に祈り求めることができるとは、なんて幸いなことでしょうか。素直に求める彼を、主はどれほど喜んでおられることでしょうか。幼いうちから祈る特権を知っていること、祈った友達と机を並べて自分の祈りに一緒に応え、主の恵を味わっていけること…主が彼らに良い成績以上の祝福をすでに注いでくださっていることを感謝しました。ミラクル寮の日常の一こまに、確かに聖霊が働かれていることを見ました。
寮では、遊びながら小さな先生達にミェン語を教わり、ミェン料理やタイの野菜の採り方、使い方を教わり、彼らを通してミェンの村のことを教えてもらっています。寮に期待されている将来の展望は大きく、スタッフと経済的必要に関しては祈りつつ求めています。しかし、そこで誠実に働く宣教師のネリー、寮父母のジェットとメイツィンはたくましく、今日も、寮の子供達にとって「わたしの恵はあなたに十分である」と言われている主のことばが真実であることを覚えます。今、主に養われている生徒達がどんな実を結んでいくのか、彼らの存在は現在だけではなく、将来の楽しみでもあります。
~有澤宣教師ご夫妻と過ごして~
これまでの5ヶ月を通して、主は多くの人を備え、彼らを通して御自信の真剣さ、真実さを表され、宣教の現場で起きていることを見せてくださいました。その一方で、有澤先生ご夫妻からは、その主に、どのように応えていくか、生活を通して教えられています。主の働き人が召しに応えるためにそそぎこむ祈りと、多くの祈り手の祈りと、努力と時間は計り知れず…極自然に喜んで仕える宣教師の姿を見て、イエス様のもとに集まった者達に「天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われたことを思い出します。イエス様は完全な御父に従われ、御父の完全な御計画を成し遂げてくださいました。
そのイエス様を追うように、目の前で同じ言葉を話し、同じ物を食べ、同じところで笑って過ごしている宣教師夫妻が、聖霊の力によって完全な父に従っている姿を見て…私はどのように完全な主に応えていくかを、問われているところです。
フィリピン短期宣教視察の恵み 高橋 未来
フィリピン・マニラ貧民街宣教視察 佐味湖幸
2008年この夏、日本人神学生高橋未来さんが貧民街での教会の働きやストリートチルドレンの働きを視察するために、フィリピン、マニラに行かれました。初めて経験するマニラのスラム。人なつこく集まってくる子どもたち、ゴミの山で暮らす人々、目で見る物、耳に入ってくる音、なんとも言えない臭い、全てが大きなチャレンジであったことでしょう。証を読んで、あなたも神様からチャレンジを受けられますように。尚、このような宣教視察、短期宣教プログラムに興味のある人は、担当佐味までご連絡ください。個人でも、グループでも随時、ご相談に乗ります。(左の「メールフォーム」をご利用ください)
「また、あなたが右に行き、左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」イザヤ書30:21
私はこの夏、 2008.8.19~23という本当に短い、5日間という期間、フィリピンのマニラでの宣教視察に導かれました。私は現在、全寮制の神学校の神学生の身であり、あまり自由に身動きできない中で、不思議なようにこの5日間を与えられて宣教視察に行くことができました。
周囲から、“宣教なんて大それた事・・・”というような雰囲気を感じつつも、自分に示されている宣教の重荷をどうしたらよいのか分からずにいた中、この度導いてくださった佐味先生にお出会いしました。ご連絡し、調整している中で、すでに出発の日まで時間が無い中で、身動きの出来ないためにあきらめていたような私のために、全てをスムーズに、最善に導いていただいたこと、先生のお働きも全て、神様にあって感謝しています。
「世界宣教に興味がある」と宣言するだけで、かなり勇気のいることのように感じる環境の中で、始めの御言葉イザヤ書30:21をもって神様は“この道に”と確信を与え、進ませてくださいました。
私のフィリピンの印象は、「豊かで貧しい国」というものでした。飛行機から見る景色は、本当に緑豊かで、多くの自然の恵みにあふれているように見えました。
私は個人的に、貧しい人、また福音を伝えられない人に対する「宣教と社会的責任」についてのテーマ、重荷をもって視察をさせていただきました。
私は主に、マニラのケソン市にある片道9車線の大きな通り沿いにあるスラム街での働きを見せていただきました。1970年代に中流階級の教会からリバイバルが起こり、スラムへの伝道が進んだということで、スラムにはその教会から起こった子教会、孫教会が起こされていました。その流れを追いつつ、それぞれの様子を見せていただきました。
宣教地視察の1日目、午前はオリエンテーションが持たれ、フィリピンの国の歴史、文化、国民性、人間関係の上で必要な配慮、実に細かいところまで、彼らを深く理解しようとする宣教師の姿勢を学びました。午後からは、キリスト教を直接は伝えられないコミュニティでの働きを見ました。2日目に訪問したいくつかの教会でも、子どもたちへのプログラムがしっかりと組まれていました。確かにスラムには子どもが多く、特に1日目に行ったコミュニティは他では見ない物乞いの子どもなど、生活の状況や雰囲気など、宗教の違いのためか違っていたように感じました。
また、ゴミの山の付近で生活しているコミュニティにも訪れ、ストリートチルドレンの働きも見ました。その地域の余りの広さに圧倒され、またゴミの山そのものの姿にもただ圧倒されました。私は以前、「日本が東南アジアの資源を搾取している」と聞いたことがあり、この人たちの生活を搾取し、その上に日本での生活があると思うと、居た堪れない思いになりました。3日目に訪れた一つのスラムの教会では、集まってきていた子どもたちと交わる時が与えられました。不十分な英語力で、しかも短い時間でありながら、彼らの心に少し触れることが出来たように思います。その教会に掲げられていた二つの御言葉が私の心に深く残っています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」 II コリント5:17 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。」ヘブル13:8 この二つの御言葉に希望を持って教会がここに建てられていることを思い、そこに集う一人一人が本当にこの信仰に立って、キリストによって新しく造りかえられ、またいつまでも変わることのないお方と共に歩むようにと願わされました。
私にとってこれらの経験は、“宣教”ということを考えさせる機会となりました。そもそも私の中では、「宣教(=福音を宣べ伝える)」と「社会的責任」が別々に考えられていたように思います。しかし、宣教とは、全人的救いのために、私たちが神の愛により、全てをもって主を証することであることを知りました。どのような文化、環境、背景をもっていようと、彼らの隣人となり、彼らがすべてにおいて神様の豊かなご愛と恵みに与ることができるように、祈りつつ成されていく働きが、宣教であり、社会的責任もそこに含まれていると知りました。自分の考えで神様のお働きを狭めていたことを思い、もっと宣教について学びたい。アジアにおいて、アジアの宣教についてもっと実際に学んでいきたいと新しいチャレンジをいただきました。新たなビジョンを与えられたことを神様に感謝しています。
南フィリピン短期宣教プログラムに参加して 小松 佑多
南フィリピン短期宣教プログラム報告 佐味湖幸
2008年3月14日から4月2日まで(大林姉は4月13日まで)、4人の青年が南フィリピン短期宣教プログラムに参加し(佐味宣教師引率)、かの地で行われている主の働きに携わってきました。そこでは宣教師のチームが社会からさげすまれているホームレスの人々や回教徒の貧民街のなかで、イエス様の愛を生き生きと行動の中で証しており、参加した私たち一同は大きなチャレンジを受けました。
参加した4人の証をここに掲載します。
今回のこのフィリピンへの短期宣教で実際に現地へ行き、現地の痛みを肌で感じ、宣教師の人たちと、本当に短い間でしたが、ともに主の御国の建設のために働けたことを誇りに思います。その反面、自分の弱さや罪、いかに自己中心で日々生きているのかなど、本当に多くのことと向き合わされました。また、普段日本にいては絶対できないような経験などもさせてもらい本当にこのプログラムに参加できてよかったなと思います。
向こうで考えさせられた一つのことを、ここで書きたいと思います。
それは、「伝道とはなんぞや?」ということです。フィリピンに行く前、僕の伝道のイメージは「神様のことを伝えるとか、罪とは何か、愛とはこういうものです」って伝えることだけが伝道だと思っていました。しかしながら、向こうのチームの人がしていることは、マイノリティーの人たちとともに時間を過ごし、遊んだりする中で仲良くなり、そして彼らに本当に必要なことを与えることでした。イエス様も世の中から虐げられている人のとこにわざわざイエス様から出向いていき、手を差し伸べて、その人に一番必要とされることをなさったという聖書に書いてあることが、とても強烈に私の頭の中で思い浮かびました。このことに、実際に触れる中で、180度伝道に対するイメージが私の中で変わりました。このことを通し、私の周りのまだ神様のことを知らない友達に対する接し方や伝道についてとても考えさせられました。ノンクリスチャンの友達に私の持っていたイメージの伝道の仕方ではなく、向こうのチームの人たちが行っていた伝道の仕方でも、十分に神様のことは伝わるのだと思わされました。彼らのマイノリティーの人たちとのかかわり方を見ていると、そこに本当に神様の栄光が現れていて、なにも語らずとも神様の愛がそこに満ちていたなと感じました。このことを通し、私も日本のこの神から遣わされた場所で、彼らが行っていたように周りの友達に接していきたいと強く思わされました。
また、フィリピンでも神の働きがなされていて、いろいろ大変なことはあるが、守られて神様の働きが続けられていることを見ることができとても励まされました。日本に帰ってきたから終わりではなく、これからも彼らの働きを覚え祈り、日本での生活を送っていけたらなと強く思わされています。
フィリピンの短期宣教旅行 大林恵子
南フィリピン短期宣教プログラム報告 佐味湖幸
2008年3月14日から4月2日まで(大林姉は4月13日まで)、4人の青年が南フィリピン短期宣教プログラムに参加し(佐味宣教師引率)、かの地で行われている主の働きに携わってきました。そこでは宣教師のチームが社会からさげすまれているホームレスの人々や回教徒の貧民街のなかで、イエス様の愛を生き生きと行動の中で証しており、参加した私たち一同は大きなチャレンジを受けました。
参加した4人の証をここに掲載します。
2008年3月14日~4月13日・・神様に導かれ、私はフィリピンのダバオという街にいた。導かれたというより、神様がそこでの宣教を体験させようと私の背中をおしたというほうが、私にはしっくりくる表現である。今まで、1週間程度のビジョントリップというものには何度か参加したことがあったが、短くても宣教という形で参加したのは、初めての経験だった。ダバオで私は、宣教とは何か?神様の召し、神様と自分、貧困とは・・・など教えられ、考えさせられた。いくつか分かち合いたいと思う。
今回の参加したトリップはOMFのMUPTという都市の貧しい人たちをターゲットに宣教をしているチームに短期宣教という形で参加させてもらった。チームは公園に住んでいるホームレスの家族やストリートにいる若者やゲイの人たちに夜訪問し、話かけたり、コミュニティに対しては必要にあった助けをしたり、子供や女性のためのプログラムをしたりしていた。チームの宣教師の行動や言動を聞いていて、私はいつの間にか、宣教ということを狭くとらえてしまっているのではないかと思えた。宣教=福音化・・・福音を語ることが宣教。誰かを教会に連れくればそれが宣教・・チームの人たちは福音を直に語ることは少ない(と思う)特にコミュニティにはコミュニティの人たちの宗教がある。また、ストリートの働きを一見するとただ定期的に行って何気ない話をしているようにしか見えない。でも、ストリートの人にMUPTのチームの人たちをどう思うのか訊ねたら、彼らは口をそろえて「チームの人たちは友達だ・・」と言った。ストリートの人も、コミュニティの人もチームがクリスチャンであることを知っている。「宣教は誰かを私や私の教会に連れてくることではなく、出て行って、そこにいる人の友達になることである。彼らがキリストに会うために・・」と感じた。日本にいてまわりにいる人たちに対しても教会に来てもらうのは大事なことだけれど、それ以上に私を通してキリストと、相手が出会うことが大切なことだと思う。
神様と自分・・・
この旅に参加を決めた時、私はアメリカに滞在中だったがたまたま帰国したときに声を教会でかけてもらった。でも、祖母の具合も悪く、フィリピンにいっている間に持たなくなるだろうと思ってもいたので、申込もしないつもりでいた。・・が、なぜか心が落ち着かず、いくのが御心かなと感じ、締め切りをとうに過ぎていたのに申し込んだところOKをいただいた。なぜか、行く前に心に響いていたみ言葉が「能力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」だった。
そのあと、フィリピンに行くまでに祖母は死に、私は何もしたくないなと思っていたしフィリピンも行きたくないなと思っていたが、時の過ぎるのは早く、飛行機に乗る日になってしまった。旅の準備もほとんどせず、旅行中に頼まれた子供のためのメッセージの準備をどうにかしただけ・・。フィリピンに行ってからは、食事や暑さといった生活のことは苦にはならなかった(洗濯は手洗いとか蟻に足をかまれまくってぶつぶつがいっぱいできたとか、ゴキブリが4匹一気に出てくるとかも・・・)が、言葉とそこで期待されることに応えられないことはこたえた。チームの人たちは英語やタガログ、セブアノ語ではなす。私は英語で思うようにコミュニケーションがとれない。滞在中の最後の10日は日本人一人でチームに残ったので、余計にストレスだった。また、私は日本では看護師をしているというと、貧しい人たちは病院にいくお金もないので診てもらったり薬をもらうことを期待する。言葉もできず、フィリピンの貧しい人たちのもっている病気は随分日本とは違うし、期待されても何もできないように思えた。準備も不十分だった。自分は何もできない・・ということ。自分の弱さを感じ、なぜここに神様はつれてきたのだろうと思っていた。でも、何もない、何もできません。ということを神様に差し出したとき、イエスさまは近かった。神様がともにおられると知った。
帰る時、コミュニティの子供が自分のしているブレスレットやネックレスをくれた。私は現地の子供とは遊んだだけ・・と思っていた。それでも、彼らは受け入れてくれていたのだと知った。私たちは普段、何か結果を残すことがいいことのよう考える価値観の中に生きていると思う。能力のある人間はいいとされる。だから、ただそこにいて時間を過ごすということは何もしていないように思えていた。言葉もできず思うように動けない私は無能だし、意味もないのではないかと。でもキリストに心をさしだしキリストとともにそこにいる時、それは大きな貢献になるのではないだろうか。コミュニティの子供にはたとえ数週間の短い期間でも、私という存在にインパクトをうけるとは思いもしないことだった。彼らが私の名前を忘れたとしても、その心に日本人がキリストの故に彼らに逢っていたことをいつか知ってほしいと思う。今から思えば、行く前に心に語られていたみ言葉を私は体験させられたのだ。
貧困やら外人が宣教に出ていくこととか、他にもいろいろ思ったり教えられたりした。答えのでていないこともある。また分かち合う機会があればわかちあっていきたい。各国ごとに文化も違うし、言葉も違う。遣わされている宣教師のために祈るということも行ってその祈り課題の意味をより深く知れることも短期宣教の意義の1 つにはいるように思う。
日本から今回遣わされたチームの人たちに会えたことも感謝でした。何より、すぐ弱音を吐きどうしようもない私の背中をおし、遣わしてくださった神様、いつも私とともにいることを教えてくださったイエスさまに感謝している。
宣教? クリスチャン? 野村天路
南フィリピン短期宣教プログラム報告 佐味湖幸
2008年3月14日から4月2日まで(大林姉は4月13日まで)、4人の青年が南フィリピン短期宣教プログラムに参加し(佐味宣教師引率)、かの地で行われている主の働きに携わってきました。そこでは宣教師のチームが社会からさげすまれているホームレスの人々や回教徒の貧民街のなかで、イエス様の愛を生き生きと行動の中で証しており、参加した私たち一同は大きなチャレンジを受けました。
参加した4人の証をここに掲載します。
「宣教という言葉のイメージを変えてほしい」MUPTチームのリーダーのEmoさんにオリエンテーションのときに言われたことばです。とてもひねくれ者で天の邪鬼な私はそう言われると急にそんなことがおきてたまるものかと思ってしまいました。ところがそんな私のかたくなな思いとは関係なく、宣教についての見方は変わりました。それだけでなく「クリスチャン、イエスキリストを信じるもの」とは一体どんな人でどのようにあるべきなのかも問い直されました。
フィリピンではMUPTというムスリムやホームレスなどといったフィリピンで低く見られている人たちのために働いているチームに加わりました。チームのメンバーは自分のあり方を捨て彼らに合わせ友になろうとして、もう何年もフィリピンで働いてきています。そのチームに加えられて一緒に働く中で、人々に長年の働きによってこのチームは信頼されているということをひしひしと感じました。「弱い者を獲得するために弱いものになった」というパウロと同じ姿をこのチームの中で見ました。
M. Believer という人たちとの出会いも私のクリスチャン像に疑問を投げかけました。M. Believerという人たちはムスリムの文化の中でイエス・キリストと出会い信じるようになったものの、さまざまな理由からムスリムの文化の中にとどまっている人たちです。十分に彼らと話す時間もなかったこともあり彼らのことを十分に理解することはできませんでしたが、これまでのクリスチャン像を考え直すには十分でした。私も固定観念にとらわれていることが多く「私たちも負いきれなかったくびきを他の人たちの首にかけようとしている」ことがあるのではないかと考えさせられました。
この他にも本当に多くのこれまで気がつかなかった現実にフィリピンで気づかされました。このような経験の後、日本に帰ってきた私がこれからどう生きていくのかが今問われていると思います。宣教プログラムとしてフィリピンに行ったときだけその場限りの優しさなどを身につけて多くの人と関わるだけで日本では自分の生活や人生に閉じこもってしまうのか、それともこの日本でもキリストにあって多くの人の友となろうとするのか。このことに今後の人生で答えていきたいです。
フィリピン宣教プログラムの証 齋藤尚子
南フィリピン短期宣教プログラム報告 佐味湖幸
2008年3月14日から4月2日まで(大林姉は4月13日まで)、4人の青年が南フィリピン短期宣教プログラムに参加し(佐味宣教師引率)、かの地で行われている主の働きに携わってきました。そこでは宣教師のチームが社会からさげすまれているホームレスの人々や回教徒の貧民街のなかで、イエス様の愛を生き生きと行動の中で証しており、参加した私たち一同は大きなチャレンジを受けました。
参加した4人の証をここに掲載します。
今回フィリピンへ行くにあたり、その時働いていた職場を辞めることにしました。たかが三週間と言っても、将来の第一歩となる丁度良い区切りであると思えたので、神様にお祈りして心の決心を付けることにしました。将来宣教師になるとか、直接献身をするとか、そういうことではなく、その宣教師のサポート役など、宣教に直接関わらない働きをする人も多くいることを知っていたので、そのような現場も含め、実際に宣教の現場を見てみたいと思い期待して臨みました。
このプログラムに参加して、自分の無力さを思い知らされ、ただ自分が存在している、それだけで意味があるのだということを改めて教えられ、学ばされました。又、自分の人生は想像以上に未知なものであり、神様の手の中にあるものだとつくづく感じました。起こることが無いだろうと思っていることがごく普通に行われていたり、思っているほど困難でない事柄も、想像以上に時間がかかってしまったり……。
あるフィリピン人のワーカーに言われた“Take your time.”という言葉が今もなお、私の心を彷徨っています。周りの環境が私を急かしている、そんな風に思える時も、自分というものを見失わず、他人から見た私、クリスチャンとしての生き方、メンツをどうこう言うのではなく、ただ、神様にお従いし、神様に、どうでしょうか?と問いかける強かさが欲しいなと純粋に思います。私の人生は、どうしてですか?と問いかけるばかりで、納得がいかないまま、どんどんと駒を進めていっている人生ゲームのようでしかない、そんな風に思ってしまう時があります。神様の手のうちを知りたい、どうしてなのか、その理由を知りたい、しかし、神様はそのことを明確に示さないまま、私を信じるか?と私に問いかけます。
正直、帰国後の心の動揺は小さくありませんでした。フィリピンでホームレスの人たちと共に時間を過ごしたことやムスリムのコミュニティでの活動が日本に戻ってきて非現実化してきたからです。また、私は三週間、長い夢を見ていたのではないかとさえ思えてきてしまうほどです。
「解決しない事柄の一部始終を見て、一喜一憂するのではなく、未解決のただ中にいて、深層を知ろうと願うこと、即ち、神様との深い交わりを与えてくださるのだと期待すること、そして、その事柄が起こったことを感謝し天の御国へ帰る日まで、人生をスリリングに楽しめるようにしてくださっているのだと前向きに考えること。」これがフィリピンで教えられた最大の恵みです。
ホームレスの人たちと一緒に野外礼拝した後で
公園に住む女の子が描いてくれた絵
祈りの旅の証 井藤 裕美子
北タイ祈りの旅 佐味湖幸
2008年1月18日から28日まで、途中参加者も含めて日本から4人の祈りの勇士が北タイの町々とバンコクを訪れました。宣教師たちからの情報をもとに、また現地で目に入ること、耳に入ってくることの中に神様が祈るべき事柄を教えてくださり、導かれるままに祈りました。タイと周辺国との国境へ行き、福音に門戸を閉ざしているそれらの国々のために祈り、また有澤師が奉仕しておられるミェン族の村でも祈りました。日曜日にはチェンマイ、バンコクの日本人教会で礼拝を守らせていただき、幸いな交わりが与えられました。有澤宣教師夫妻をはじめ、OMFの他の宣教師の方々のお世話になったこと、また、チェンマイ日本語教会、タイ聖書福音教会の皆様との主にあるお交わりを感謝します。主がかの地でさらに大いなる事をしてくださる事を期待し、祈り続けたいと思います。
来年以降、またこのような祈りの旅を企画したいと願っています。興味のある方は、佐味のほうまでご連絡ください。
この写真はメコン川と対岸の隣国です。「タイ祈りの旅」のために祈っていた時に、この写真のようなイメージが与えられました。
私が持っている少ない知識で考え付いたことは、川から森しか見えなく、その先に何もないように感じたように、宣教されても信じる人々があまりおこされないのではないか、信じても信仰生活が迫害などで大変だとか、あまり宣教の実がないのではということでした。
しかし、実際にタイへ行き、色々とお話を聞いていく中で、福音が伝えられている山岳民族が多くあること、また、ラジオの福音放送を熱心に聴いて信仰を持たれる部族の方々がおられることを知り、宣教のみわざの実はすでにあることを知りました。
更に、神様はある出来事を通して私の目を開いて下さいました。
旅の途中で私達は、交通事故でケガをして自宅で療養しているある男性を訪問することになりました。一人で暮らしている彼のために、近くに住んでいる山岳民族のクリスチャンの婦人2人が中心となり、言葉が通じない中で一所懸命に食事などの世話をしていました。その状況を見る中で、私は、山岳民族の人達は福音を伝えられる人、成長のために祈られる人となど受身の人というイメージを持っていましたが、信仰を持ち成長している彼女達が、今度は他の人々に仕えている姿を見て、感動し、また、神様のみわざが広がっていることを深く知ることができました。
様々な課題を目の前にした時、メコン川から対岸を見た時のように、その先には何もないように思えますが、それは私の目には見えないだけで、確実にその向こうには神様の働きがあること、また、困難に思えても、神様が確実にみわざを成し遂げてくださることを見出すことができ、神様に対する信頼感が深くなりました。
私にとって、実際にタイへ行き、見聞きしたり、体験したりすることは非常に意義深いことでした。
これからはそれぞれの祈り課題に対して、神様が必ず成し遂げてくださるという信仰を持って、とりなしの祈りをしていきたいと思っています。
証 沖田 ひとみ
北タイ祈りの旅 佐味湖幸
2008年1月18日から28日まで、途中参加者も含めて日本から4人の祈りの勇士が北タイの町々とバンコクを訪れました。宣教師たちからの情報をもとに、また現地で目に入ること、耳に入ってくることの中に神様が祈るべき事柄を教えてくださり、導かれるままに祈りました。タイと周辺国との国境へ行き、福音に門戸を閉ざしているそれらの国々のために祈り、また有澤師が奉仕しておられるミェン族の村でも祈りました。日曜日にはチェンマイ、バンコクの日本人教会で礼拝を守らせていただき、幸いな交わりが与えられました。有澤宣教師夫妻をはじめ、OMFの他の宣教師の方々のお世話になったこと、また、チェンマイ日本語教会、タイ聖書福音教会の皆様との主にあるお交わりを感謝します。主がかの地でさらに大いなる事をしてくださる事を期待し、祈り続けたいと思います。
来年以降、またこのような祈りの旅を企画したいと願っています。興味のある方は、佐味のほうまでご連絡ください。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 I コリント2:9
北タイ祈りの旅は、短い滞在であったのに、わたしの内を突き刺す意味深いものでした。
9 月のOMF祈祷会で佐味湖幸師よりインドネシア宣教ツアーの報告を聞き、他国の方々が日本のために祈ってくださるために集まる姿、また世界のために祈る姿を見て感動し、10月のOMF宣教カレンダーのみことば、ネヘミヤ4:8~9さらに14節、20節がこの時に読まれ「祈りなさい」神様から宣教のために祈るように促されたのです。そして、この時、祈りの旅とフィリピン短期宣教旅行にふさわしい人が参加できるよう、道が開かれるようにと祈りの課題が挙げられたのですが、自分が参加するとは思いもせず、旅のために祈ったのです。そんなわたしがこの旅に途中からでしたが参加することをゆるされたのは、神様の恵みです。
今回幸いにも有澤宣教師を訪ね行くことができ、旅の中でもたった3日間の滞在であったのに、わたしは今まで報告を読んで祈っていたはずなのに、なにも知らず、なにも心に留まっていなかったのだと、ショックを受けました。
タイでの日々に感じたのは、「変化」です。雛が卵から生まれようとして、ピキッと卵が割れ、暗闇から光に出ていこうとしている姿を見ているかのようです。
有澤宣教師が仕えておられる教会の一つ「サッチ教会」での夜の祈祷会で、真の信仰をもって大好きな賛美を次々リクエストする女性信者たちは本当に愛おしく光り輝いて見えました。ミェン語で美しい響きをもって共に主を讃えられたことは、今思い出してもその感動が心の鈴を鳴らします。ミェン語の讃美歌のために労してこられた有澤師ご夫妻のお働きを垣間見、さらに感動したのです。湖幸師が、暗闇がたとえ深くても、神の光を待ち望むことを奨励され、それを受け次々女性信者たちの口から様々な問題点と祈りの課題が溢れ出、問題を真の問題として捉えておられるのを見て、わたしが想像していた以上に神様に信頼を置いて歩む生活を選び取っておられることを知り大いに励ましを受けました。教会を出て四方見渡しても街灯のない真っ暗な山の中。この山の中で本当に素晴らしいことが起きていると実感する祈りの時でした。
国境に立ったときは、国々を眺め、神様を遠ざける閉ざされた暗闇、根深い人の欲望からくる思いと行動の現れや偶像に、身震いし悲しみに包まれ、解放を祈りながら、日本のことをも思っていたのです。わたしの住む地域は?わたしの周りは?家族は?これ以上に閉ざされているではないか。むしろ、ある国ではラジオ放送だけで養われ信仰をもつ多くの人が起こされているという。自らの神様との関係に暗闇、妨げがあることに気付かされ、悔い改めへと導かれたのです。
有澤師の「リバイバルはヴィジョンがなければ」と大きな夢に向かって期待して語られる姿が印象的で、「できることをしよう」という考えではなく「やらなければならないことをする」状況が変わったらしようではなく、今の状況でなにかしようというチームの動きが生き生きと伝えられたことが今も心に刺さります。
今回の旅で何度となく神様から「悔い改め:罪のゆるし」「大いなる期待:夢を見る」がキーワードとして迫ってきました。祈りたい、祈りますと言いつつも、かたくなで、犠牲をはらうことから遠ざかる自分中心な冷めたわたしを神様は忍耐をもって様々な方法とみことばをもって悔い改めに導いてくださり、この旅に参加するよう促してくださったのは、さらにわたしが神様の豊かさの中で期待して祈る者に変えられるためであったと感謝しています。今わたしは日本にいながらにして、メコン川の流域に立ち、またバンコクを見下ろしながら国々と自国のために大いに期待して祈らせていただくのです。天の御国がここにあそこにもすでに用意されている、と人の想像や思い、時空を遙かに超えた神様のご主権に思いを巡らしつつ具体的に祈れるよう願っています。
タイの歴史をさかのぼりながら 高橋皓允
北タイ祈りの旅 佐味湖幸
2008年1月18日から28日まで、途中参加者も含めて日本から4人の祈りの勇士が北タイの町々とバンコクを訪れました。宣教師たちからの情報をもとに、また現地で目に入ること、耳に入ってくることの中に神様が祈るべき事柄を教えてくださり、導かれるままに祈りました。タイと周辺国との国境へ行き、福音に門戸を閉ざしているそれらの国々のために祈り、また有澤師が奉仕しておられるミェン族の村でも祈りました。日曜日にはチェンマイ、バンコクの日本人教会で礼拝を守らせていただき、幸いな交わりが与えられました。有澤宣教師夫妻をはじめ、OMFの他の宣教師の方々のお世話になったこと、また、チェンマイ日本語教会、タイ聖書福音教会の皆様との主にあるお交わりを感謝します。主がかの地でさらに大いなる事をしてくださる事を期待し、祈り続けたいと思います。
来年以降、またこのような祈りの旅を企画したいと願っています。興味のある方は、佐味のほうまでご連絡ください。
今回の旅の経路は、バンコク、チェンマイ、チェンライ、チェン・セーン等と巡りましたが、その一つ一つが歴史的な町でした。中国西南部から南下してきたタイ族が初めて王国を築いたのがメコン川河畔のチェン・セーン。そこから次々と王国の首都は南下してバンコクに至るわけですが、今回は逆に歴史の新しい方から古い方に向かって歩いてきました。
それぞれの町でいろんな方々にお会いし、現実に多様な生き方があることを教えられたり、宣教の必要性、重要性について具体的な祈りの課題を与えられた旅でした。
「チェンマイに滞在する日本人は三つのグループに分けられる。」との発言には考えさせられました。特に「インターナショナル・ホームレス」という言葉には重みを感じました。いろんな事情で日本を脱出し、バンコクよりも涼しくてしのぎやすいチェンマイの地にたどり着いた人たち。登録している人だけでも2500人を越えるとのことですが、一人一人が違った背景を持っているだけに、「日本語教会」の役割は重要で大きいものです。
タイ族が中国西南部から南下してきて最初に王国を築いた地と言われる「チェン・セーン」。
小さな町ながら繁栄の跡をしのばせる遺跡も点在し、隣国から船で渡ってきた人たち、周辺国からの船できた人たちでにぎわっていました。小柄な若い女性が生後数ヶ月の赤ん坊を抱いて木陰に座っていましたが、服装から隣国から船できたミェン族のようでした。赤ちゃんも部族特有の毛糸で編んだ帽子をかぶっていたので突如祈らせられました。
ここからは、観光客用に隣国に渡る船が出ている。四時間半のコースで、パスポートも必要なく、渡って行って買い物をしてこれる。入っていける範囲は数キロに限定されているものの、気軽にメコン川を渡り国境を行き来ができるのは素晴らしい。
ゴールデントライアングルでは、二つの川を挟んでタイと二つの隣国が国境を接していました。この一帯にかつては「けし畑」が広がり、産出される「アヘン、O- pium」の密貿易の中心地であり、世界のヘロインの半分はこの一帯から産出されていたという。これは部族が伝統的に昔から栽培に取り組んでいたのでなく、外因の圧力によってなされていたもの。現在はけし畑の代わりに、部族ごとにイチゴ、お茶、コーヒー、マカデミヤナッツ等と工芸作物に取り組ませているとのことだった。「アヘン博物館」での展示活動や「人と森は共存できる」として森林破壊から自然環境を蘇らせ、水源林を回復させようという働きには教えられるところが多い。
今回は宣教師たちの取り組みの一部を垣間見ただけの旅でしたが、宣教活動について具体的な祈りの課題を与えられ、多くの知恵と工夫を出し合って活動を展開している様子に目が開かれ考えさせられる事が多い旅でした。感謝しています。
「一歩踏み出して」 カンボジア短期宣教 岡崎るつ記
あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇37:5
この御言葉は、教会のメンバーと一緒に西村信恵宣教師を訪ねて初めてカンボジアに行った時、その旅の中で最も心に残ったものでした。その時は、たった一週間だけの滞在で、本当にあっという間の出来事でした。何故この御言葉が心に残ったのかと聞かれても、私にもよく分かりません。けれども、その時以来、この御言葉は常に私の近くにありました。いつもこの御言葉を握り締めていたように思います。
正直言うと、初めてカンボジアに行った時も、そして今回のカンボジア行きも、あまり気は進みませんでした。中学生の頃からアジア、特に東南アジアに興味を持っていましたが、どうしてかカンボジアに行けるという話を聞いてもあまり心は躍らなかったのです。初めてカンボジアに行った時も、「一週間だけだったけど充分。二度とは来ないだろうな。」と何とはなしに思っていたくらいでした。
ところが、それから二年後、不思議なことに私はカンボジアの地にいました。自ら行こうとしたわけでもなく、むしろ他の道が閉ざされて仕方なく行ったようなものでした。他の国に行きたいのだと私は泣いて神様に訴えました。一日だけでもいいから自分の行きたい所に行こうと方法を考えました。けれども、見事に私の思いは聞き入れられず、カンボジアの菅家宣教師御一家のところに行く道が開かれました。
カンボジアでの七ヵ月半は、時には楽しく、時には忍耐を強いられ、また辛いこともありました。けれども、何よりも大きかったのは、神様が私の存在を心に留めて下さっているということがよく分かったことでした。根本的な自分の存在価値を主に問わなければならないこともありました。けれども、そんな時、天の父なる神様は静かに私への愛を示して下さいました。
また、私は必要を満たして下さる神様を知りました。カンボジアに行きたくなかった理由の一つに、一緒に時を過ごせる友だちがいないということがあったのですが、これも不思議な形で備えられたのです。日本人のクリスチャンで同じ21歳の女の子でした。お互い存在も知らなかったのに、カンボジアの地で出会わされ、かけがえのない友となりました。
神様は、私をカンボジアに導いて下さいました。一歩踏み出して従って、私は大きな祝福を得ました。私の願い、計画ではなく、主に信頼し従って行く時、例えそれが願うところと違っても、必ず主は最後まで責任を持って導いて下さいます。カンボジアから帰る時、私の心は感謝でいっぱいでした。昨日でもなく明日でもない、今が日本に帰る時なのだと、次の場所に向かって期待を持って一歩を踏み出すことが出来ました。私の人生を主が受け取って下さり、絶えず導いて下さると、今確信を持って言うことが出来ます。
「カンボジアの子供たちに出会って」 カンボジア短期宣教 細田あき子
子どもたちの大きな歓声が聞こえてくる。“ラモ”という農業トラクターに乗った子どもたちの声だ。その数70人を超える。裸足の子どもたちが教会の二階へ駆け上がり、そしてサンデースクールが始まる。賛美する子ども達の楽しそうなこと、床が抜けてしまうのではないかというくらい元気に跳ね上がり、子ども達の声がこだまする。カンボジアに行って驚いたことの一つは、子ども達の明るさだ。貧困や病気に苦しむカンボジアの様子はよく耳にしていたが、彼らを見ている限り、全くそういった悲壮感は見られない。カンボジアの若者達の姿にも励まされた。
毎週喜んで出張サンデースクールに出かける姿に、また家族や近所からの強い反対の中で真っ直ぐに信仰者としての意志を貫いている姿に、先生と呼ばれていた私だが、教えられることの方が多かったのが事実だ。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」やこぶ2:5 たとえ、生活は貧しくても信仰に富んでいる人たちとたくさん出会うことができたこの数ヶ月、彼らとの出会いは、私の生活に、信仰に、宣教に新しい風を吹き込んでくれた。