キリングフィールド・リビングフィールド~ポル・ポト時代のカンボジアに起こった9つの話~ ドン・コーマック著 松浦泰樹・詩子 訳
はじめに(1)
私はこの本の中で語られる幾つもの物語が、みなさんの心の中に長く留まり続けるであろうことを確信しています。
著者ドン・コーマックは、「キリングフィールド・リビングフィールド」の中で、1920年代に農民たちの間で始まったカンボジア教会の今日に至るまでのあゆみをまとめています。彼ほどカンボジア教会の歩みを語るのにふさわしい人はいないでしょう。1975年にプノンペンがクメール・ルージュによって陥落した時、彼はその地に最後まで留まった宣教師の1人です。そして、その後その地に最も早く帰還した1人でもあります。その間、彼はタイ国境の難民キャンプで過ごしました。彼はカンボジア人を愛し、苦しみの中にある彼らに仕えました。希望や恐れを抱えながらも、カンボジアの人たちは次第に彼を信頼するようになりました。
これらの物語は、当時には知ることのできなかった1975年から1979年までのカンボジアの悲劇的な歴史を伝えてくれます。これまで世界のあちこちで、想像を絶するほどの残虐な行為が行われてきましたが、場所は異なってもクリスチャンが経験したことは何とよく似かよっていることでしょうか。東南アジアのこの小さな国の中で、暗闇、流血、恐怖、どうしようもないほどの悪があったにもかかわらず、私たちは主の御手をそこに見出します。主はカンボジアを見捨ててはおられませんでした。
クメール人に福音が届くまでに、1900年という時間がかかりました。アメリカ人宣教師であるデイビット・エリソンがルカの福音書を素朴なカンボジアの農民たちに初めて渡したのは1920年代でした。彼らはその内容に魅了されました。真理は彼らの心をつかんだのです。仏教文化が深く根付いているこの土地では、クリスチャンは人々から避けられ、嫌われ、痛めつけられました。彼らは度々投獄され、村で病気が流行すると、いつも彼らのせいにされました。クリスチャンであることは生やさしいことではありませんでした。
ポル・ポトが実権を握る少し前、聖霊は新しい方法で働き始め、霊的覚醒が起こりました。クリスチャン・リーダーの1人であるタン・チッ少佐は、OMFに対して働き人を送り、新生したクリスチャンを訓練するよう強く要請しました。もはや時は残されていないと彼は予期していたのです。これは緊急かつ危険な任務でした。ドン・コーマックは、マレーシアのチーフー・スクールで宣教師子弟を教えるという「安全地帯」を後にし、陥落の1か月前プノンペンに到着しました。その直後、チッ少佐は殉教しました。
カンボジアのクリスチャンは、「キリストと苦難をともにする」(訳注:ローマ8:17)ということの意味を、私たちよりも多く学びました。そして彼らは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(訳注:コロサイ1:27)をより深く知りました。彼らは、「圧倒的な勝利者」(訳注:ローマ8:37)であり、何者も神の愛から彼らを引き離すことはできませんでした。設立から50年を経たカンボジア教会が直面したネロの迫害の物語は、苦難と栄光という新約聖書における大きなテーマについての力強い現代版注解書となっています。
この本の序文において、ドン・コーマックはこの本を執筆した動機の1つを次のように述べています。
「もし、今日のカンボジア人クリスチャンが、(当時の)厚い信仰、忍耐、霊的な先駆者の殉教について知れば、かけがえのない永遠の福音に対していい加減な態度をとらなくなるでしょう。この福音は彼らが無償で受け取ったものであり、そのとおりに生き、同じような試練の中にある者たちへと伝えるようにと召されたものです。」
宗教改革の殉教者は、西欧のクリスチャンがかけがえのない永遠の福音そのものを受け取るようにと自らの命を献げました。しかし今日の西欧教会は、教義と聖書的な道徳観との両方に対して無頓着になり、関心を持っていません。そして、受け取った真理に対していい加減な態度をとっているのです。これは私たちに自己吟味させるために、主が改めて与えられた機会ではないでしょうか。私たちは気がついているでしょうか。カンボジアの教会史を見る時、福音を守ろうとする証(それは雄弁であり、多くの犠牲に基づき、説得力のあるものです)を得ることができます。これは西欧教会のためだけのものではありません。世界中のキリストのからだに当てはまるものなのです。
はじめに(2)
「キリングフィールド・リビングフィールド」は、現代史、伝記、宣教学、教会史、政治分析、そして優れた文学としての性質を持っています。これは、20世紀の東南アジアにおける政治経済情勢の中で行われた教会開拓の物語です。また神の摂理の物語でもあります。読むに堪えないほど悲惨な話もあれば、私がそうであったように涙なくしては読めない箇所もあるでしょう。この物語を読む時、生ける神がご自身を隠さずに臨んでくださることが分かります。
時代や文化を越えて人類の心にある大きな問いは、「苦しみの時、神はどこにいるのか」ということに尽きるでしょう。カンボジア教会の物語は、この問いに対する真実な答えを示していると私は信じています。また、苦しむ魂や真理を求める者にとって、耳を傾けるのに価する唯一の答えでもあります。すなわち、「神はそのただ中におられる」ということです。
1998年12月30日付けプノンペン発ロイター通信の記事は、次のように記しています。
「キュー・サムファンは、ポル・ポトの「キリングフィールド」の背後にあった政策の立案者であるが、昨日1970年代の残酷な政策によって170万人に上る犠牲者を生んだことについて、クメール・ルージュのリーダーの1人として初めて公的な謝罪をした。苦しみを引き起こしたことについて謝罪しているのかと尋ねられると、彼は「そのとおりです。申し訳ありません。本当に申し訳ないことをしました。」と英語で答えた。その後、カンボジア語で次のように続けた。「どうか過去を忘れてほしい。そして、私に憐れみをかけてください。兄弟姉妹よ、過去を忘れ、国の復興に力を貸してください。」
「私に憐れみをかけてください。」これらの言葉の背後にある良心の呵責は、何年もの時を重ね、どれほど大きなものとなったことか。キュー・サムファンは、本書35ページの物語を読めるのだろうか。神は苦しみのただ中におられた。そして、悔い改めた人々のためにも、赦しを与えるためにそこにおられる。なんという「福音(良き知らせ)」だろうか。
ジュリア・キャメロン
UK OMF出版メディア部門長
プノンペン陥落(1)
1975年4月17日、プノンペンはクメール・ルージュによって陥落しました。しばらくの間カンボジア国民は、これから祝賀の時だと思いこまされていました。しかし時が進むにつれ、想像を絶するほどに酷く残虐な行為がこの国で繰り広げられました。カンボジアはキリングフィールド(殺戮の地)へと変わりました。
4月16日の夜、過去4か月にわたってプノンペンを包囲していた敵軍(訳注:クメール・ルージュ)は、市の中心部に向かって最終突撃を決行しました。恐ろしいロケット砲が絶え間なく打ち込まれましたが、それを防ぐ術はなく、もはや手の打ちようがありませんでした。最初にポチェントン空港、そして北部の街へと伸びる防御ラインが突破されました。疲労困憊し落胆した何千という守備隊が、もはや戦う勇気もないまま、郊外から逃れてきた民衆とともに、残された領地である中央幹線道路へと移動し始めました。彼らは混乱し、目的もなくさまよいながら、食べ物と避難所とを探し求めました。4月17日の朝、メコン河水平線上の東の空が日の出により紅く染まるとともに、南北へと向けた砲火による深紅の輝きも現れました。黒煙が燃え上がる燃料補給所や、首都を取り巻く崩壊寸前の難民スラム街から立ち上りました。決して忘れることのできないこの日、4月の太陽が雲一つない空に向かってゆっくりと無情に高く昇っていった時、眠ることもできず、感覚が麻痺したような何百万ものプノンペンの人々は、まさにお祭りのような光景を目にしました。何百もの白い旗や軍旗が、窓や屋根の上、車、そして王宮の前の川を行き来する小型砲艦など考えられる限りのあらゆる場所ではためいていました。クメール共和国は降伏し、プノンペンは陥落したのです。今や残されたすべてのものは、ばらばらにされて四方へと投げ捨てられるゴミ屑のように扱われる運命にありました。
午前8時、市街道路の空気はもはや悲劇ではなく、幸福そのものでした。戦争はついに終わり、降伏がもたらした途方もない安堵感が至るところに広がっていました。喜び叫ぶ群衆、拍手する子どもたちや学生たち、花をばらまく女性たちなど、多くの人々が道路に出てお祭りに加わり、文民軍人問わず踊ったり抱き合ったりしていました。街の中心部を通り抜ける並木道に沿って、人々は浮かれ騒ぎ、ついに平和が到来したことを喜んでいました。彼らはクメール・ルージュ軍の兵士たちに向かって、熱狂的に挨拶していました。兵士たちは困惑したり平静を装ったりしながら、一様に悪名高い黒いパジャマのような姿でモニヴォン通りを行進したり、装甲車に乗ったりしていました。何千もの意気盛んな声は、「平和だ!平和だ!」と叫んで喜びを表わし、何か月も押さえつけられてきた感情を爆発させました。50万人以上の死者を生み出した痛ましい内戦の5年間は終わりを迎えました。長年待ちわびた平和がついに来たのだ、そう彼らは思ったのです。
彼らの真ん中を行進していたこれらの戦闘的で若い「熱狂者」たちは、「怪物」ではなく、カンボジア人、仏教徒、プノンペン市民と自認している者たちでした。しかし締め切った扉の陰に隠れ、おそるおそる二階の窓から下を覗いていた人々は、もっと警戒心を持っていました。彼らはなにか不吉な予感を感じていました。年配者たちは5年前の1970年に起きたのと同じような熱狂的な反乱を、どことなくしらけた思いで見ていました。あの時、熱狂的な日々に続いて、シアヌーク殿下の追放、輝かしいクメール共和国の発足、ロン・ノル政権、アメリカからの大規模な支援の公約がありました。更に5年を遡る1965年、民衆は反米デモに加わるためにどっと繰り出しました。そして彼らの父なるシアヌーク殿下に感化され、新しいナショナリズムの精神が広まりました。国民の多くは、その朝の様子からも分かるように、気まぐれで騙されやすいのです。そして、彼らは中国共産党がバックアップしたクメールゲリラの風変わりな勝利パレードに、はっきりとした既視感を抱き、懸念以上のものを感じていました。しかしそれを隠して、彼らの元首としてシアヌーク殿下が復権することについて話していました。
午前9時30分。突然の出来事でした。あたかも前もって準備されていた合図であるかのように、幾日も止むことなくラジオから流れていた愛国的な軍歌が止まりました。何かの前触れのような静けさの後、厳しく無情な声が響きました。「栄光ある力強い、勝利を得たカンボジア革命軍よ、永遠なれ。偉大で勇敢なカンボジア人民よ、永遠なれ。我々はまだ交渉の席に着いていないが、既に力づくで首都に突入している。」
午前10時。クメール・ルージュは、だめ押しの一手を加えました。国を愛するある仏教徒の声が放送されました。「戦争は終わりました。私たちを取り囲んでいるのは「兄弟」です。落ち着いて家で過ごしていなさい。」元気づけるような宣言でした。(1か月も経たないうちに、仏教聖職者のリーダーたちは殺され、寺院は破壊され、仏像や遺跡は粉々にされました。この「仏教の兄弟」の支配期間、4万から6万もの僧侶が殺されました。)
プノンペン陥落(2)
ラジオ局と情報省を乗っ取った後、「首都回復の方策について相談する」ために、クメール・ルージュはすべての前政権指導者を情報省に召集しました。これは人々をマインドコントロールするために、クメール・ルージュが巧みに画策した一連の嘘の始まりでした。後日、ほっとした気持ちと同時に野心をも持ち合わせた軍部職員と有力な政治家が国中から何千人と集められ、自動車に乗せられて「死」へと連れて行かれました。多くの者は得意げに勲章や軍服を身につけ、ある者は自らを英雄として遇してくれると信じていたシアヌーク殿下に対して、高価な贈り物を携えていきました。クメール・ルージュのずる賢い広報担当者たちは、シアヌーク殿下と仏教という、人々を引きつけ攪乱させる言葉をいつも使うことによって、戦争で弱り、疑うことを知らないカンボジアの群衆を騙し、操り動かしました。これらは悪賢い糸で紡がれた目に見えない蜘蛛の巣の中で、民衆を罠にかけ、大虐殺していくために最初に行われたことでした。
その朝、情報省では約50人の前政権指導者がクメール・ルージュに屈服しました。忠実な首相ロン・ボレッも含まれていました。彼は、ついに語られずに葬り去られた個人的な苦痛と未解決の政治的問題とで日夜苦闘し、神経をすり減らし全く疲れ切った様子でした。彼らは、プノンペン市ワットプノム近くにあるスポーツクラブのテニスコートで、クメール・ルージュによって直ちに斬首されました。この時の様子については、クメール・ルージュは血で足を洗ったといわれています。
その間、北京の司令部では祝賀のカクテルパーティーが催され、クメール・ルージュの傀儡であるシアヌーク殿下は勝利に酔い、「カンボジア史上、最良の日だ!」と宣言していました。数日後、ふさわしいともいえるし、皮肉めいたともいえる出来事が起こりました。シアヌーク殿下の母であるシソワット・コサマック妃が北京亡命中亡くなったのです。それは一つの時代の終わりを意味していました。
ギラギラ光る太陽が空を横切った時、路上の雰囲気は異様なものへと一変しました。拍手をしたり、踊ったりしていた人々は、銃声や拡声器の音に追い立てられました。「全員出ろ。出て行け。」クメール・ルージュが大声を上げました。すべての人々は銃を突きつけられ、直ちに街から退去するように強制されました。何百というクメール・ルージュの兵士たちが、脅すように凄んだ顔つきでいつでも発砲できるように銃を構え、大股で道を行き来しながら、町中すべての家々を組織的に見回っていました。麻痺したように恐怖に怯えた居住者たちは、直ちに外に出るように命じられました。理由を尋ねたり、口答えしたり、手間取った人々、それだけでなく単に路上を移動していたような人でさえ、見せしめのために即座に銃で撃たれました。
大規模な略奪はそのほとんどが10代の兵士によって行われました。彼らはいつも「決して多くは盗まなかった。わずかばかりの米を人々から取っただけだ。」と嘘をつきました。彼らは銃を突きつけ、時計からバイクに至るまで望む物すべてを没収しました。人々がクメール・ルージュの口から「オンカーラァー」(高等組織)という不吉な言葉を聞くようになったのはこの頃からでした。無表情で非人間的なオンカーラァーは、確かにとてつもない権力でした。この新しい名称には、不可能なことは何一つないかのようでした。
黙示録のような日の午後、路上には恐ろしい光景が広がっていました。200万から300万もの怯えた人々が市外へ出て行くようにと強いられていたのです。4月の灼熱の暑さのもと、水もなく、戦争で荒廃した地方へと追い立てられ、民衆はさながら牛の大群のようでした。退去命令は絶対的なもので、例外は許されませんでした。老人や弱者、妊婦、幼い子ども、栄養失調の子ども、病人、死にかけている人、そして戦争のため重傷を負ってベッドに横たわっていた何百という人々は、側溝にゴミのように捨てられたり、歩いて出て行くように命じられました。2万人にも上る入院患者(その多くは重病で這うことすらままならない人々でしたが)が、勝利の日だというのに路上へと追い立てられました。何百という患者たちが病院から追い出され、助けもなく横たわっている光景は最も哀れなものでした。
NYタイムズのシドニー・スキャンバーグ記者は、首都陥落を見とどけるために残り、彼の目の前に広がった光景を次のように記しています。
「200万人もの人々が、突然首都から出ていくように強制され、呆然としたまま歩き、あるいは自転車に乗り、車を押し、さながら人間のカーペットのように道路を覆っている。重装備の兵士たちが来て直ちに退去するように命じると、人々はすべての所有物を投げ捨てるしかなかった。生死をさまよう入院患者がベッドから引きずり下ろされ、路上へと追い立てられた。その中のある者たちは腕に点滴を着けたままであった。」
このような悲惨な光景は、国中至るところで繰り広げられました。「組織」の暗く不可解な計画の中で、「悲劇の台本」はずっと書き続けられてきており、何度も校正され、入念にリハーサルされてきました。しかしそれが「初演」されたのは、1975年4月17日、ここプノンペンにおいてでした。無情で若い人民解放軍は、あたかもステージ上で忙しそうに一斉に働く何千ものスタッフのようでした。