border-top


帰国者クリスチャンを理解するために
(横山好江(在欧日本人宣教会)著、尾関祐子(JCFN)他JCFN有志協力)

はじめに

 在欧日本人宣教会の宣教師としてイギリスで邦人伝道に携わり、帰国者ミニストリーに関わっていた私たち夫婦ですが、日本各地の教会をまわった際に「帰国者クリスチャンという人達がよく分からない、手引きのようなものを書いてくれないか」という要望を牧師や信徒の方々から受けました。働きの中で主が与えて下さった経験を少しずつ書きため、2010年3月のAll Nations Returnees Conference 第2回全国帰国者大会に向け、JCFNの尾関祐子さん他の協力を得てお届けできることを、心から主に感謝しています。

 過去14年間の経験から書かれた物ですが、これを用いて下さる方々の経験や声も寄せていただき、さらに多くの方に広く役立つものにしていきたいと願っています。皆さんからの寄稿を歓迎いたします。

 文中「私たち」とあるのは、帰国者ミニストリーに携わる働き人のことです。JCFNと在欧日本人宣教会の者たちで、このような形で一緒に奉仕する機会を与えて下さった主に感謝します。

2010年3月 横山好江

目 次

1.帰国者ってどういう人?

2.どう接すればいいの? - 「帰国者は宇宙人」?

3.「またこの教会に来よう」と感じるとき

4.「『クリスチャンとして生きる』ことを日本でやったことがありません」 ― どう助けるか

おわりに: Think Globally, Act Locally



English version - "Understanding Returnee Christians"

1.帰国者って、どういう人?

まず2つのケースをご紹介します。

ケース1:Aさん(独身女性)の場合
 私はイギリスで初めてクリスチャンに出会い、とても良くしてもらい、初めて教会に通い、聖書を学ぶようになりました。現地の教会です。すべて英語です。英語を学んだ街は大学町で、英語学校はクリスチャンの英語学校。先生は皆クリスチャンでした。ホームステイ先もクリスチャンでした。日本ではクリスチャンに会ったことも、教会に行ったこともありません。先生や、ホームステイ先の家族の生き方に大変惹かれ、誘われるままに教会に行くようになりました。教会は、人数は200人位。大学町ですから学期中は特に若い人が多く、賛美も前にバンドがあり、若い人向けの賛美です。礼拝に来る人は子供から年寄りまでいましたが、プロジェクターで映し出される歌詞を、皆顔を上げて輝いて歌っていました。英語力はある方なので、言われることはだいたいわかります。もともと何でも口に出せる性格なので、言いたいことはだいたい言えます。聖書の学びも進み、福音も理解し、信じたいと思いました。「イエス様を救い主として信じますか?」と尋ねられたので、「はい」と答えました。皆さん大変喜んでくださいました。洗礼というものがあるのを知り、受けたいと言ったところ、じゃ2週間後にちょうど洗礼式があるから、ということでそこに入れてもらいました。受洗して1ヵ月後帰国しました。
 帰国して、実家の近くの教会に行きましたが、あまりに違うのでびっくりしました。最初、礼拝に行きましたが、何だか暗くて固い感じがしました。人数も少ないし、若い人も少ないです。賛美をする時下を向いて本を見て歌っています。賛美も全然知らないものでした。説教もほとんどの人が下を向いたり、目を閉じたりして聞いていました。「イギリスで受洗して帰ってきました」と言ったら、牧師がとても喜ばれて、「ピアノは弾けますか」とか「子供は好きですか」と聞かれました。でも、日本語の聖書を持っていないと言ったら驚かれました。私は英語でずっとやってきたので日本語でどう祈ればいいかわからないし、礼拝での祈りを聞いたら敬語が多くてすごく難しそうだったので「祈れません」と言ったらまたすごく驚かれました。その後は何か、ちょっと冷たい対応になりました。イギリスでは牧師も信徒同士もファースト・ネームで呼び合っていたのに、「なになに先生」と呼ばなきゃいけないようで、これも固いなぁと思ってしまいます。今まで経験していたキリスト教とあまりに違うので、この教会にまた行くかどうかわかりません。他の教会も見て、イギリスの教会に似た所がないかどうか探してみたいと思います。

ケース2:Bさん(ビジネスマン、海外赴任でフランスに数年滞在)の場合
 妻がクリスチャンだったので、パリに来てすぐ日本語教会を探し、私は運転手役から始まりました。最初は教会の建物には入らず、次は交わりだけに顔を出し、警戒心がだいぶ薄れてきたので話も聞いてみようと礼拝に出るようになりました。当時この教会は無牧だったので、普段は役員の信徒が交代で説教し、機会あるごとにヨーロッパ各地で働いておられる牧師先生が説教奉仕に来てくださいました。いろんな先生の話を聞けたのは恵みでした。無牧の中を、信徒が全力を傾けて教会を支え、建て上げているのを見て心動かされ、「全力で自分が信じるものに力を注いでいける生き方」を知りたいと思うようになりました。そして聖書を本格的に読み始め、クリスチャンになる決意をし、受洗しました。すぐに教会の奉仕に夫婦そろって携わるようになり、充実した教会生活でした。この教会は人の出入りが多く、私と同じような経験をして先に帰国した兄弟姉妹の話もよく聞いています。日本の教会はだいぶ違うようで、戸惑うこともあると思いますが、妻の母教会でやってみようという思いで帰国に臨みました。
 妻の母教会では私がクリスチャンになったことを大変喜んでくれて、歓迎してくれました。パリの教会との違いで納得できないことも多々ありましたが、妻と話せますし、今は「郷にいれば郷に従え」の気持ちです。慣れるのに時間がかかったことが二つあります。帰国してつくづく「パリの教会は超教派だったんだな」と思います。説教者も信徒もいろんな教団教派からきています。てんでんバラバラなようですが、自由さがありました。あの人はあの人でいい、自分はこれでいいと。そういえば、妻が時々悩んでいたのを思い出します。いろんな人がいて受け入れられないことがあると。今の教会は、「教団の教え」「教団のために」ということが多々あります。「神様のため」とどう重なるのか、違うのか、よくわかりません。窮屈な感じはします。もう一つは、奉仕にも年功序列があるということです。誰かに言われたというより、私の観察です。重要な奉仕は、長年の信徒・役員がやります。私のような新参者は、まだ会場案内しかさせてもらえません。パリの教会では人数も少なかったし、無牧だったし、新参者も古参も関係なく、力を合わせて教会を建て上げていた実感がありました。今は、「キリストの体」というより、教会内の日本社会で何とか生き延びている感じです。日本ではこんなものなのでしょう。

 このように海外で福音に触れ、クリスチャンになって日本に帰国してきた人たちを「帰国者クリスチャン」と呼んでいます。彼らは日本でクリスチャンになった人とはその救われたバックグラウンドやプロセスが少し異なるため、日本に帰国し教会に足を運んだとき、本人も、そして迎え入れる教会の方々も、違和感を感じることが多々あるのです。

2a.どう接すればいいの?―「帰国者は宇宙人」?(ポイント1~3)

 日本の北と南、西と東。日本国内の移動でもカルチャー・ショックはあります。就学、転勤などで引越した時には、その土地に慣れるプロセスを通ります。言葉、人間関係、風習・習慣など、当たり前だと思っていたことが通じないとき、新しいやり方を知り、馴染んでいくようになります。教会も小さな社会。違う土地から来た人は、同じような適応のプロセスを通るでしょう。
 やって来る人だけでなく、迎え入れる側にとっても、自分たちとは異なる背景を持つ人との出会いは、一種のカルチャーショックかもしれません。自分たちが当たり前と思っていることと全く違うやり方や価値観を持ち、言葉も、時には身なりさえも違う人を迎え入れ、共に歩むには、一歩一歩の過程があることでしょう。

 「日本国内の引越しで来られた方の経験はあるが、帰国者というのは全く分からない」という声を聞くことがあります。「帰国者というのは宇宙人のようだ」と言う人がいます。慣れない経験に戸惑いつつも、「海外でクリスチャンになった帰国者を理解するにはどうしたらいいのか。」「またこの教会に来たい、と思ってもらえるためにはどうしたらいいのか。」という思い・願い・求めが与えられている教会(信徒・牧師)が、いま日本各地に起こされているとは、素晴らしいことです!
 帰国者が海外でどのような経験をし、どのような信仰形成をしてきたかを知ることは、彼らの背景を理解し、迎え入れる上でとても重要だと思います。以下にそのためのポイントをいくつか掲げます。

ポイント1.海外でどういう教会に行っていたか?
 あなたの教会に来た帰国者は、海外でどういう教会へ行っていたでしょうか。現地教会か、それとも日本語教会(Japanese Christian Fellowshipの略でよくJCFと呼ばれる)でしょうか。
 現地教会であれば、帰国者がキリスト教について知っていることは、ほとんど英語で学んでいる可能性が大です。日本語教会であれば、礼拝形式などは基本的に日本の教会と似ているでしょう。(ただし米国西海岸や東海岸などをのぞけば、超教派の教会である場合が多いです。)
 また、帰国者が海外で集っていた教会の年代層、礼拝形式、賛美の種類・やり方、教会の人数、等々はどうでしょうか。このような具体的な情報を聞けば、その人の海外における教会体験の外郭がつかめてきます。
 現地教会しか知らない人の場合、帰国前に日本人クリスチャンに会ったことがあるか、日本語の聖書を持っているか、読んでいるかを尋ねると良いでしょう。現地教会に通いながら同時に日本語の交わりにも出ている場合もがあり、そうすると日本語でかなり養われている可能性もあります。

ポイント2.海外に行く前の、日本での教会経験は?
 海外で生まれて初めてクリスチャンという人に出会った、友人になった、あるいは初めて教会に入った、キリスト教と接触があった、といった場合は、日本での教会・キリスト教経験は皆無であることがわかりますので、そのつもりで導く必要があります。しかし、日本で求道していた、幼い頃教会学校に行ったことがある、学校がミッションスクールで聖書や礼拝に馴染みがある、となりますと、ある程度日本の教会の様子を知っていることになりますので、この点の確認は大切です。

ポイント3.海外でどのように教会に関わっていたか?
 現地教会の場合、ゲスト(お客さん)扱いされてきた方が多いかもしれません。人数が多く、言語の壁がある中で教会活動に携わることは大抵の日本人にとっては大きなハードルです。よって奉仕に関わった経験がまったくない可能性もあります。
 一方、日本語教会・JCFの場合は、ケース2のビジネスマンBさんのように、少ない人数で教会を支える必要から、受洗後まもなくから(場合によっては求道中でも)積極的に奉仕している場合があります。
 日本語教会や、日本人クリスチャンが行なっている家庭集会やバイブルスタディのような交わりで救われた場合は、そのグループ内で活発に奉仕していたことも考えられます。そのような点も確認されると良いでしょう。

2b.どう接すればいいの?―「帰国者は宇宙人」?(ポイント4前半)

ポイント4.どのような信仰の歩みをしてきたか?受洗は?
 霊的状態の確認に関する質問はもっと早い段階で尋ねるべきだという考えもあるかと思いますが、特に現地教会の場合は「受洗した」といっても、日本の教会で洗礼準備をし、教会の会員になるということを教えられて受洗したのとは違うケースがよくありますので、質問の重要性からするとこれまでの質問の方が意味があるように思います。
 日本語教会であれば、日本人牧師が洗礼を受ける際に何らかの学びの機会を持っている場合が多いので、どういう準備をしたか、教会について、教会員になることについてどの程度教えられているかを確認すれば良いように思います。

 現地教会で受洗した場合は、ケース1のAさんのように、「受洗したい」と言う希望者に洗礼を授ける教会もありますので、どんな準備をしたか、その教会では受洗したクリスチャンがどのような教会生活をしていたか、を尋ねることが大切です。たとえば、いわゆる「キリスト教国」のイギリスでは、国教会の伝統もあり、洗礼とはおもに幼児洗礼のことで、日本人がお宮参りする感覚で未信者も子供が赤ちゃんの時に教会で洗礼を受けさせることが一般的です。洗礼を受けた者はクリスチャン、クリスチャンであればどこに移り住んでもその「教区」の教会に通うもの、ということで「教会員」の意識は一般的にはあまりありません。(もちろん、イギリスにもバプテスト教会や単立教会などはあります。)アメリカや、オーストラリア・ニュージーランドなどではそのような教区制度はないものの、教会員制度に対する意識はあまりない教会が多く、信仰告白の祈りをしたら、その日の内に洗礼を授ける教会は決してめずらしくありません。よって、現地の教会で洗礼を受けた、ということと、日本の教会で洗礼を受けた、ということは大きな違いがある場合が多々あります。日本の教会では洗礼を受けるイコール教会員となる、という場合が多いです が、海外の教会では洗礼は純粋にその人の信仰告白を意味します。

 また、稀にではありますが、本人の信仰告白というのも、よく話を聞いてみると、現地のの友人がとてもよくしてくれて、聖書も丁寧に忍耐をもって教えてくれた、信じますかと聞かれて「ノー」と言えなかった、というケースもあります。これは日本人ではない人たちにはわからないものです。

働き人から「ひとこと」
日本人を導いている現地クリスチャンには、「ノーと言えない日本人」のことを機会あるごとに伝えています。
 また欧米の教会は、その文化と同様、個人主義であり、自主性を重んじます。教会の奉仕も、自己申告制のところが多いように見受けられます。ですから、奉仕していないクリスチャンも教会にはたくさんいますし、それでも居心地が悪いということにはなりません。クリスチャンと言えども、いろんな人がいる、それが許される教会の姿です。
 そのような体験をしてきた帰国者たちが日本の教会を見るとき、教会員の多くが奉仕に関わっている姿にびっくりするかもしれません。日本では、調和を重んじるため教会奉仕に関しても必要のある奉仕を牧師や教会のリーダーに依頼されて引き受ける、というケースが多いですし、比較的少人数の教会であるため、教会に関わる多くの人が奉仕をすることによって教会活動が回っている、という事情もあるでしょう。

2c.どう接すればいいの?―「帰国者は宇宙人」?(ポイント4後半)

 受洗まで至っていない帰国者の場合はどうでしょうか。日本語教会であれば、一般的に日本の教会と同じような活動がなされていますので、どのような集会にどの程度参加し、霊的にどれくらい導かれているかを知ることによって、その人の信仰状態を確認しやすいと思います。
働き人から「ひとこと」
私たちは現地クリスチャンによって導かれている「求道者」に教会紹介をすることがよくあります。その場合の多くは、本人が情報を求めるというより、導いている現地のクリスチャンが「帰国後も教会に行きたいですか」と尋ね、「はい。」との応答によって、私たちに情報を求め、本人に渡すという流れです。このような「求道者」が余りにも多いため、私たちとしては「どのようにしたら、この人達を教会に結びつけられるだろう」とよく考えます。海外で、クリスチャンが多くの愛と労を注いでここまで来た魂が、日本では全くこの世に失われてしまうというのは、何とも勿体無い気がするのです。必要なのは「ロー・キー」の伝道ではないかと思わされています。「伝道集会」という形で伝道メッセージを語り、決心を募るというより、バザー・音楽会・福音喫茶のように、まずは教会に来てもらう、クリスチャンと接点をもつという集会です。海外で救われる日本人と接して驚くのは、日本でクリスチャンと会ったことがないという人が非常に多いことです。このような「ロー・キー」の集会によって、接点を多くするのは意味あることではないでしょうか。
 現地教会の場合は、外国人向けにも様々な集会や活動がありますので、「教会に行っていた」と言っても、実にいろいろな関わり方があります。地域の外国人のために教会が英語教室をやっていることがあります。授業の前後に聖書から語る時間をもっているところもありますが、そこの教会の考え方にしたがって一切キリスト教的なことは触れないところもあります。留学生伝道を本格的に行なっている教会では、専任のスタッフが居て、留学生のケアをしたり、留学生のためだけの集会をもったりしています。例えば英国ケンブリッジの幾つかの教会では、午後7時頃から「コーヒー・バー」形式の集会をやっています。大学のクリスチャン・ユニオンが盛んで、ケンブリッジのクリスチャン大学生も加わっています。日本人の学生がそこに行くと、そういった学生と英語で話して友達になれるチャンスがあるわけです。「コーヒー・バー」形式の集会では、フレンドシップ・エバンジェリズムの考えにそって、イエス様が友となってくださったように、まず友となるところから始め、徐々に福音を語り、共に聖書を学ぶところに導いていきます。集会の前半は喫茶店のような設定で自由な会話をします。福音を伝えるような寸劇や、音楽が入ることもあります。
 後半では「聖書を学びたい人は別室へどうぞ」と招きがあります。興味がある人はそちらへ移動します。そこで出会ったクリスチャンが自分の教会の礼拝や他の集会に求道者を誘い、さらに導いていきます。英語力によってはどんどん本格的な求道を進めていくこともできますが、同じような行動をしていても英語力が伴わなければ理解も進まないものです。
 また、アメリカでは超教派の団体による留学生伝道が盛んに行われています。大学のキャンパスの中で、留学生たちの英語のレポートを助けたり、車を買う手伝いや、引越しの手伝いなどをしながら、友情を築き、徐々に福音を伝えていく、ということが良くあります。また、彼らは、パーティやイベントを通して友達をつくり、そして興味のある人たちにはバイブルスタディを提供しています。
 「母と子の集い」といった集会をしている教会も多くあります。幼稚園に行く前の年令の子供と母親が集って、一緒に遊ばせたり、母親同士が情報交換をする場になっています。ここでも英語教室のように、福音や聖書について語る場合とそうでない場合があります。このような集会をきっかけに受洗まで至る婦人も少なくありません。しかし求道心があまり無く、英語力もそれ程でもない場合は、ただ活動に参加していたというところで終わることも多いでしょう。
 それでも、帰国後教会に通いたいという思いが与えられれば、それはそれで感謝なことで、私たちとしては「少しでも長く教会に通ってくれれば」という思いで教会紹介をします。このような「求道者」が「私は海外で教会に行っていました。」と言った時、どのような集会か、どのような思いで集っていたか、どの程度福音や聖書について聞いたか・理解したか、今日本の教会に通うにあたって何を望んでいるか等を聞き出せればいいのではないでしょうか。海外で経験したものと似たような集会があれば、さらに通いやすくなるでしょう。

 以上、帰国者の海外教会体験や現状を知るための4つのポイントについてお話しました。次に、海外で邦人伝道に携わるものとして、帰国者と日本の教会についての個人的な所感をお分ちしたいと思います。

2d.どう接すればいいの?―「帰国者は宇宙人」?(働き人のつぶやき)

働き人のつぶやき:「帰国者」は変人か?
 欧米社会は基本的に個人主義ですので、個人の尊厳を尊重することが社会の根底にあります。例えば、欧州では障害者との共生が上手にできており、未信者の日本人がそのようなところからキリスト教に興味を持つケースもあります。
 日本人伝道しようと思う現地クリスチャンはなおさら、キリストの愛に溢れている人が多く、その人をあるがままに受け入れ、理解しようとし、助け、仕え、キリストの福音とともに、生き方をもってキリストの愛を伝えてくれます。「こんな人になりたい」との動機から求道する日本人も少なくありません。
 日本を出て、言葉や文化の違いを越えてでも何かを手に入れたいと願い、それを実行する日本人は、そこからして海外経験のない日本人から見れば「変わった人」かもしれません。(企業で海外赴任の場合は会社の都合で行かされるので、また違うでしょうが。)その「変人」が、このように恵まれた環境で変人ぶりを「助長されて」帰ってくるのだから、こりゃまた大変、なのでしょうか。そのようにとらえることによって、帰国者を理解しやすくなった、接しやすくなった、受け入れやすくなったという人がいるかもしれませんので否定はしませんが、帰国者に直接接している私たちとしては、もう少し違う切り口を考えます。
 自分の意志で海外に行く人は「変わっている」としましょう。しかし、一口に「変わっている」と言っても、キャリアアップのために留学した人から、自分探しのためにワーキングホリデーに行った人、人生をリセットするために海外に出た人、心の病を抱え日本を出ることに突破口を求めた人、偽装結婚をしてまでも海外に住むのが夢だった人まで、実にさまざまです。そして、海外経験がない人は全然「変わっていない」のでしょうか?個人的な観察では、日本から一歩も出たことがないという人でも、どう努力しても理解に苦しむ「変わった」人も居ます。海外経験のあるなしにかかわらず、どこに身を置いても「異端児」といったレッテルを貼られる人はいます。

 どうしたら帰国者が教会に定着できるのか、また教会が帰国者をより理解し、効果的に助けることができるのか、という課題に取り組んでいる私たちからすると、一般的に日本人は「同質(つまり、自分たちと同じような考え方や立場の人たち)」のものを好む傾向があり、日本の教会にもそれがそのまま当てはまると思えることがあります。そして、それが新しく来られる方々にとっての壁となってしまっているように見受けられることがあるのです。
 誤解しないでください。「もっと海外の教会のようになればいいのに。」といった単純な思いではありません。海外の教会には海外の教会の課題があります。日本の教会をよく知っているイギリス人クリスチャンは、「イギリスの教会は日本の教会に学ばなければならない。聖日礼拝の後の愛餐会に象徴されるような、一緒に何かをやるということがもっとあってもいいのではないか」と言います。イギリス人未信者が日本に住んで、日本の教会で救われるということも起こっています。また、あるアメリカ人クリスチャンは、自国のクリスチャンが教会を商品化し、自分の必要を満たすためだけに教会を選び、その満たしを得ることができないと教会を安易に変わる傾向が強いことを指摘し、教会員制度をしっかり意識し、什一献金をしっかりささげ、一つの教会に長く仕える日本人クリスチャンのあり方をとても高く評価しています。それぞれの文化には、それにふさわしいキリスト教の表現があり、教会の在り方があります。ただ、一般的な傾向として、日本の教会は帰国者に限らず、新しく来る人に対して効果的にアプローチすることにチャレンジを感じているところが多いように思えます。それはよそ者(新来会者)に対して自分たちのようになることを無意識の内に願う、日本人気質のせいなのかもしれません。しかし、自分たちと違う人をどう理解し受け入れるか、どうクリスチャンとしての成長を助けるかを学ぶことは、まさにパウロが1コリント9章19-23節で言っているように、さらに多くの人をキリストのために獲得していく大きなステップとなるのではないでしょうか。

 「帰国者を理解し受け入れる」ことは、日本の教会にとってはチャレンジかもしれません。しかし、だからこそ、帰国者を教会に迎えることは日本の教会の祝福になると私たちは信じているのです。「帰国者」という人を教会に迎え、キリストの体の一部として愛する経験をし、自分たちと違う経験をした人が仲間になる過程を通じて、教会は自分たちと異質な人を受け入れる基盤ができるのではないでしょうか。もちろんそれは「帰国者」でなくても、「茶髪にピアスやタトゥーをしていて自分たちと違う言葉を話す若者」であってもいいでしょう。「教会の外にいる人」に優しい教会になる。普段は教会に行かない人が初めて教会に来て「また来よう」と思える教会になる。これが実現されていくときに、よく耳にする「日本のキリスト教界の持つ閉塞感」に突破口が与えられるのではないでしょうか。主イエスが願っておられる、キリストの御身体なる教会として、日本の社会にキリストの光を放つのではないでしょうか。私たちもそのために日本の教会と共に仕えていきたいと心から願っています。

3a.「またこの教会に来よう」と感じるとき(1)

 帰国者が教会に続けて集い、教会員として成長し、キリストの体の欠くことのできない一部として組み合わされ、互いに祝されていく。献身していく。牧師・宣教師・主の働き人となっていく。このような器を主は起こしていて下さいます。素晴らしい主の御業です。帰国者が日本に戻り、教会に行く。そこに「また行ってみよう」「続いて集いたい」と感じるポイントは何なのでしょうか。「このようなことがあったので、行かなくなってしまった」というケースから考えてみたいと思います。

ケース3:Cさん(独身女性 イギリスの現地教会で救われ、受洗して帰国)の場合。
 私は帰国して数年経ちます。いくつか教会に行ったのですが、今は教会を離れています。もともと内向的な性格で、心にあることを表現するのが不得手で、イギリスでも慣れるのにだいぶ苦労し、時間もかかりました。でも、慣れた時には「一生の友達」になれた人がたくさんいました。イギリスを去るのは辛かったです。今でもことあるごとにイギリスの友人とメールのやりとりをしています。帰国後いろんな教会に行って、慣れる努力はしました。救いの確信もはっきりしているし、行った教会では奉仕もしました。ただ、自分にとって大切なイギリスでの話をすると、教会の人は全然興味をもってくれません。「そんなこと言ったって、それは向こうのこと。ここは日本。目の前にあることに集中しなさい。イギリスのことは忘れなさい。話したってしょうがない」といったような感じを受けてしまう応答です。そう言われると、私自身を否定されたようで、自分が自分でいられないような気持ちになって、交わりから足が遠のいてしまいます。今は、自分の信仰生活はこれでいいのかな、これしかできないかな、と思っています。

違いを受け入れること
 思ったことをなかなか口に出せないCさんの性格も、教会に定着できなかった一つの要因のようです。言葉少ないCさんを、イギリスのクリスチャンの友人たちは忍耐をもって受け止めてくれました。理解し、愛してくれました。ところが母国の同胞は違った対応をします(下線部分)。自分たちと同じようにならなければやっていけないと、有言無言で示します。しかし、「いつまでもイギリスが恋しいあなたでいい、私たちと同じようにならなくったっていい。」という姿勢で接してくれたらどうだったでしょうか。Cさんは自分を否定されたようには感じなかったでしょう。どのようにしたら、そのように接することができるでしょうか。

違いを受け入れるには
逆カルチャーショックの常…帰国者のつぶやきは平均6ヶ月
 Cさんのように、すべての帰国者が長い間海外でのことを話し続けるわけではありませんが、多かれ少なかれ、どの帰国者にも同様の傾向はあるでしょう。彼らが海外での経験を話すのには理由があります。一つは、彼らにとってクリスチャンとしての経験が海外のそれしかないこと。もう一つは、それが帰国者なら誰もが通る、逆カルチャーショックの姿だからです。

 違う国・言語・文化圏で生活するとき、人間は(1)「わくわく:旅行者気分」、(2)「怒りもしくは回避:この現地人は何なんだ!? もしくは、人との交流を避ける」、(3)「落ち込み:どんなにがんばってもこの国の人達のようになれない」、(4)「落ち着き:私は私でいい」という4段階を通ります。
 日本人が海外に行った時、この4つの段階を苦労しながら通り、やがてその地の生活に慣れるようになります。そして、日本に戻った時も同じ過程を通ります。しかし、海外に出たときよりも帰ってきたときの方が、ショックはより大きい傾向にあります。なぜなら、海外に出るときには、ある程度違った文化に出て行くことへの心の準備が出来ていますが、自国へ帰国するときには往々にして無防備だからです。すでに自分の知っている、生まれ育った場所に帰るのだから何も心配はないだろう、そう思っていざ帰国してみると、あまりにも自分の考え方や価値観が海外のものに影響されていて、もはや自国のものではないことに愕然とするのです。その過程で、「ふつうの」日本人には理解し難い言動もあるでしょうが、次第に、自然に日本の生活に慣れていくのです。ただ、海外に出る前の自分に戻ることは無理で、「海外経験をした自分」に落ち着くのです。人によって期間の幅があるものの、だいたい6ヶ月で「わくわく:日本に帰ってきた!握り寿司も食べたい物も好きな時に好きなだけ食べられる!」「怒りもしくは回避:私の友人は何で私の言うことをわかってくれないのか?(海外経験のある者でないとわからない部分をもっているので)」「落ち込み:やっぱり私は『変人』になっちゃった。もう日本の社会には溶け込めない」「落ち着き:変わっていると思われてもいいや。海外でいい経験もしたし、私は私でやっていこう」という4段階を通って落ち着いていきます。
 逆カルチャーショックのプロセスにある中で、Cさんが言われたように「そんなこと言ったって、それは向こうのこと。ここは日本。目の前にあることに集中しなさい。イギリスのことは忘れなさい。話したってしょうがない」といった態度で接せられると、ひゅっと引いてしまいます。たとえそのようなことを言いたくても、そこはグッとおさえて、「あぁ、そう。よかったね。そうだったの」と、ただただ受け止めてあげてください。そうすれば彼らは、「自分は受け入れられた。あっちで経験したことも、それはそれで良かったんだ」と思えて、交わりに留まることができるのです。

3b.「またこの教会に来よう」と感じるとき(2)

だって、ここは日本でしょ!?
 「そうは言っても、いつまでも過去の事にこだわって、目の前の現実に集中できないのは健全でないし、過去は過去の事にするのが本人のためではないのですか?」という声が聞こえてきそうな気がします。その通りかもしれません。しかし、その人にとって海外での生活は人生に大きな影響を与える体験であり、すでに、その人の人格の一部になっています。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)とあるように、その人の考え方、感情を受け入れ、寄り添い、キリストの愛をもって接する時、その人の海外経験を含めたすべての人生をを真に「生かし」ていくことができるのではないでしょうか。

「海外では」ばかり言われると、自分の教会やクリスチャンとしての在り方を否定されたように感じる。
 もしそのような思いを与えてしまうとしたら、何と申し訳ないことかと思います。海外の教会の話をするのが、私たちのように両方をある程度知っている者だとしても、日本の教会を知らない帰国者だとしても、決して決してそのようなつもりで言っているのではありません。私たちが言う時には「違いを知ってください。知って下されば帰国者を理解し迎えいれやすくなります。」という思いからですし、帰国者の場合には自分の体験を単純に分かち合いたい思いから、もしくは懐かしさのゆえに、あるいは逆カルチャーショックの表れとして、さらには目の前の日本の教会になかなか馴染めない自分にいらだって、ということもあるでしょう。「海外の教会のようであったらいいのに。」と、叶わないと知りながら吐露してしまう、ということはあっても、否定しているとか、一夜にして変わって欲しいと願っているとか、そんなことはないと思います。

「文化と福音」について:在外邦人伝道という異文化宣教に携わる働き人より
 ここで、働きの前提となる、「文化と福音」に関する考えについて語る必要があるかと思います。私たちは在外邦人伝道の働きをする中でいつも、「福音の本質(不変なもの)」と「それぞれの文化における表現(文化によって変わるもの)」というものがあると、海外でキリスト者になった皆さんにお話しています。私たち夫婦がイギリスとアメリカの神学校で学んだ際、大きなテーマだったのが、この二つをどのように分けるのかということでした。宣教学の学びが大きな助けになりました。近代プロテスタント宣教の歴史において、西洋の宣教師が福音と共に自国の文化をも宣教国に持ち込み、信者に押し付けたという反省があります。そこで不変なものと文化によって変わるもの(変えていいもの)を見分ける学問が進みました。現在、異文化宣教においては、それぞれの文化での表現を励ますという点が大切になっています。

 西洋のキリスト教(プロテスタント)も、その文化で花咲いたキリスト教です。それ以前は近東地域、地中海地域の文化でのキリスト教でした。聖書に記録されているユダヤ教文化における福音のあり方、異邦人文化における福音のあり方、この二つにどのような違いがあったか、それが私たちが考える際の基本になります。イギリスには4世紀に既にキリスト教が伝わっていました。時を経るにつれ、その時代時代の福音の表現がありました。カトリックとの対立、それゆえの宗教弾圧や流血など、あってはならないような間違いをも経験してきました。現代のイギリスの教会は、長い歴史を経、そこに培われた知恵をもって、起こり来る問題を対処しているように見えます。決して完成しているわけではありませんが、キリスト教を長く経験している年上の兄姉(きょうだい)として、学ぶことは多いように思います。
 日本は西洋からの宣教師を通して福音を受けて150年。戦後、大衆化し、伸びてきたとはいえ、まだまだ「伝えられたものを如何に守るか」という段階のようです。日本人の視点で神学し、日常生活の問題、異教の環境でいかに生きるかの問題にも、日本人としての答えを出していかなければなりません。西洋の神学が骨組みを与えてくれました。それを日本人として、私たちの現実に応用していかなければなりません。それを実行するのは、一人一人の日本人クリスチャンです。私たちはそんな風に考えながら、働きに取り組んでいます。
 それぞれの教団教派のやり方・考え方、それぞれの教会の礼拝形式・運営方針には、歴史的必然性があり、存在理由があります。そこに変化が表われる時というのは、そのキリストのからだにあって生ける石となって身を捧げ、キリストのからだを愛する者達が変化の必要を認め、変化の道を探り、答えを出し、実行に移す時でしょう。

 帰国者であってもなくても、新参者はそこに培われてきたことを尊重し、受け止め、自分も生ける石となっていかねばなりません。変化を望むなら、生ける石として、他の生ける石である兄弟姉妹と共に、ということになります。
 ですから、私たちは帰国者を導く時、(1)帰国前に経験した教会を求めるのは間違いであること、つまり福音の本質とそれぞれの文化における表現を見分け、文化を越えて不変なもの(聖書・聖書の神・キリストを救い主と信じる信仰、等々)を求めることを教え、(2)「あなたは日本でクリスチャンとして生活したことがない。それを教え、また支えてくれるのは日本の教会である。そこでじっくり教えてもらうように」と伝えるようにしています。私たちの主は日本の教会をどのように発展させてくださるでしょうか。帰国者を触媒として用いて下さるようにと、私たちは祈っていますが、その祈りに主はどのように応えてくださるでしょうか。期待して見守り、私たちそれぞれに与えられた分に忠実にお従いしたいものです。

4a.「『クリスチャンとして生きる』ことを、日本でやったことがありません」―どう助けるか。(帰国者の状況を知るために)

ケース4:Dさん(独身女性 「ワーキングホリデー」でニュージーランドに1年間滞在)の場合。
 私は大学を卒業後、会社勤めを数年し、貯めたお金で「自分探し」をしたくて、お金を稼ぎながら海外に住むというワーキングホリデーを選びました。ニュージーランドに着いてすぐに知り合った人に誘われ、現地教会の英会話クラスに参加しました。クリスチャンに会うのも、キリスト教に直接触れるのも初めてでしたが、出会うクリスチャンの生きかたに惹かれ、誘われるままに教会に通い、福音も理解し、「自分もこれからはこれで行こう」と思って受洗しました。帰国する2ヶ月前でした。帰国前にクライストチャーチの日本語教会の礼拝に2度出席し、同年代の日本人クリスチャンとも交わり、帰国後の教会の情報も得ていました。
 帰国して驚いたのは、家族や友人の反応です。両親は他界しており、帰国後はまず、所帯持ちになっていた兄のところに身を寄せました。理解ある兄なので、大丈夫だと思っていました。しかし兄の家に着くとすぐ、「両親の仏壇に手を合わせろ」と言われました。クリスチャンになったのでそれは出来ないと答えると、兄は感情的になり「出て行け」と言われました。それ以来、友人のところにお世話になって、独立のための準備をしています。友人も、何人かに「えーっ、あなたがクリスチャンに?!」と引かれてしまいました。「宗教」イコール「オーム真理教のようにハマると恐い」と思っているようです。
 教会も、いい人ばかりなのですが、まだ親しい人は出来ていません。見つかった仕事が英語教室の先生で、土日や週日の夕方以降が忙しく、なかなか礼拝や集会に行けません。すごく孤立しているみたいで、孤独です。仕事も忙しく、聖書もなかなか読めません。神様のことがだんだん遠くなります。

 日本で求道する人は、家族・友人との関係、日本社会でどう生きていくかをリアルタイムで、ひとつずつ解決しながら、自分でも納得しながら、受洗し、教会生活へと歩んでいけます。一方帰国者は、日本でない場所で求道・受洗が起こります。これを「脱日常」の環境と表現することもできるでしょう。ですから、「日常」に一挙に投げ込まれた時のショックが強烈になります。家族との関係、友人との関係、職場で、地域でと、それぞれの場面で予想以上の反発があり、それだけで力を失ってしまうことがあります。Dさんのように、不規則な労働時間を強いる仕事に就くことも少なくありません。
 帰国者はこのようなギャップとショックを体験することがあるのだと、どうか理解し、支援してあげて下さい。この状況を知るために、次のような質問が考えられます。このような質問を心に覚えながら確認していくと良いのではないでしょうか。

・帰国後の家族・友人の反応はどうか。それについてどう感じているか。
・そういった反応を予想していたか。意外な場合はギャップとショックを消化・解消する手助けをしてあげる。
・帰国後の忙しい生活に戸惑っていないか。〔海外での生活は「自分の時間」、つまり自分のことを考えたり、自分と向き合う時間がとれるようになります。外国語の環境では入ってくる情報量がどうしても少なくなることもあり(日本だと入ってくる情報をすべて理解できるが、海外だとそうではない)、日本での生活よりも、比較的自分のペースで生活できます。しかし帰国すると、情報量も増え、それに動かされてしまうことも多いでしょう。さらに、家族・友人・地域・学校や職場等の環境に合わせて生活しなければならず、「自分の時間」が無くなってしまいます。「忙しさについていくので精一杯」と感じる帰国者は少なくありません。〕その戸惑いをまずは受け止め、日本の忙しさの中でどのようにクリスチャンとして生きていくか、徐々に導いていく必要があります。

 「分かってあげたいのに…」海外経験がないので帰国者の気持ちがなかなか理解できない。助けたい気持ちはあるのに、助けてあげられない。

 このような声を聞きます。このような状況がよくあります。どうしたらいいのでしょうか?海外で受洗して帰国したクリスチャンが、気持ちを分かって貰えないという理由で教会に定着できないとしたら、大変残念なことです。

4b.「『クリスチャンとして生きる』ことを、日本でやったことがありません」―どう助けるか。(「帰国者の受け皿」ミニストリー)

「帰国者の受け皿」ミニストリー
 このような場合に「帰国者の受け皿」ミニストリーが役立ちます。

・「帰国者の受け皿」の目標:帰国者が日本でキリストの体なる教会につながり、クリスチャンと成長することを助ける。
・「帰国者の受け皿」の活動内容:帰国者でなければわからない、帰国者特有のニーズを満たす。教会に「分かってあげたいのに分かってあげられない」という課題があった場合に、それを補って教会につなげる。
・「帰国者の受け皿」の形態:家庭集会(ウィークデイの日中に集まりやすい婦人のため)、スモールグループ形式(仕事を持っている独身者のため)、その他。
・「帰国者の受け皿」開催者(この働きを担う者)の資質:自ら帰国者である者が、新たな帰国者をフォロアップする場合が多い。(1)教会に定着している。(2)教会・牧師に、この働きを理解・支援してもらっている。この働きのために、教会が祈り支えている。教会が、開催者をこの働きに遣わしている、という意識があると理想的。
・「帰国者の受け皿」の性質:超教派であることが多いが、教会の中にそのようなグループを設けているところもある。

 大学生クリスチャンは、KGK(キリスト者学生会)の活動で元気になり、養われます。婦人の信徒は、超教派の「婦人ランチョン」で励まされて、教会内の奉仕にがんばろうという気持ちになります。
 同じように、帰国者にも、彼らの気持ちを受けとめ、御言葉を通して光を与え、活力を与えて教会に送り返してくれる、そのような受け皿が必要です。

ケース5:Eさん(主婦)の場合。
 私は夫の赴任でアメリカに行きました。日本語教会の交わりに入り、受洗にまで至り、それから帰国しました。アメリカに行く前に住んでいた、保守的な土地柄の地域に戻りました。帰国して数年。戸惑いもありましたが、それぞれの教会にそれぞれの特徴や良さがあり、今は教会の交わりにも恵まれ、教会の奉仕もさせていただき、感謝して過ごしています。ただ、土地柄のせいか他に帰国者がいません。アメリカのことを口にすると「ひけらかしている、自慢している」と取られてしまうのではないかと恐くて、全部胸にしまって生活しており、苦しいです。自分にとって、自分の信仰生涯の大きな節目だったあの頃のことを自由に話せればと思います。他の帰国者の方と会って、是非話がしたいです。

 このケースのようなクリスチャンも、「帰国者の受け皿」の交わりで力を得、励まされて教会の中に戻ることができるでしょう。

 帰国者の気持ちを分かってあげたいのに分かってあげられない、というような課題を覚える時には、ぜひ「帰国者の受け皿」の交わりをご活用下さい。課題を覚える帰国者をお送り下さい。このような働きに向きそうな帰国者信徒が教会におられましたら、「帰国者の受け皿」開催者として主に用いられるよう励まして下さい。
 自分は帰国者でない、海外生活の経験は無いが、帰国者を助けたいという重荷を与えられた信徒が起こされています。海外経験のない者たちを用いて、帰国者が教会の支肢となれるように、宣教の主はあらゆる方法を用いて働いておられます。そのような重荷が与えられた信徒を「帰国者の受け皿」の働き人として励まし、送り出して下さい。
 気持ちを受けとめて貰えないがために、教会から離れてしまった帰国者(信者・求道者)は全国に散らばっています。「帰国者の受け皿」は全国各地に必要とされています。

ブリッジ・ビルダー
 「帰国者の受け皿」開催者をブリッジ・ビルダーとよびます。2地点をつなぐ橋、教会と帰国者をつなぐ橋の役を担う者です。

ブリッジ・ビルダーの心得
 橋の役割をする者にとって、橋を渡る人がA地点からB地点に到達するのが目的です。帰国者がキリストの体なる教会につながり、クリスチャンとして成長することを助けていくのが目的です。橋に留まらせるのが目的ではありません。「帰国者の受け皿」の会に人がたくさん集まるのが目的ではありません。これを明確に持って奉仕し続けるために、ブリッジビルダー養成・訓練も大事になります。

おわりに:Think Globally, Act Locally.

 エコの分野で奨励されている、このフレーズ。地球規模で考え、今の自分にできることを、置かれた場で実践する、という意味です。グローバル化にともない、主が日本人を全世界に散らし、移動という手段を用いて御自身を知らしめ、日本に帰し、日本の教会を祝そうとしておられます。それぞれの帰国者が、主の大宣教命令に応じて主の働き人となり、日本各地へ、世界各地へ遣わされていきます。このディアスポラ宣教の動きの中で、今の自分にできることを、置かれた場で実践する。そのためには普遍教会と各個教会という二面を忘れることはできません。帰国者のために、それぞれが示されたことを、出来る限りさせていただく。帰国者一人ひとりを主がどのように導かれ、どんな教会に定着させてくださるか、主に期待し、主に委ねていく。自分の教会、目に見えるキリストの体につながらなかったとしても、大きな主の体につながってくれればいい。このような姿勢で、帰国者と共に歩んでくださる方を、主がおこして下さることを期待します。




1st Edition, March 2010
Copyright (c)2010, 在欧日本人宣教会/Japanese Christian Fellowship Network

Production in whole or in part, in any form
is permitted if it is to be used for one to prepare him/herself
for returning to Japan as a Christian.


在欧日本人宣教会事務局
〒203-0041東久留米市野火止2-9-15 東京新生教会内
主事:横山基生
Tel: 042-477-5290
E-mail: Joutreach@gmail.com
HP: http://www.joutreach.net

Japanese Christian Fellowship Network
(USA) 3590 Elm Ave. Suite H
Long Beach, CA 90807 USA
Tel: 562-427-1783 Fax: 562-427-9028
E-mail: ushq@jcfn.org
(日本)〒101-0062
東京都千代田区神田駿河台2-1 OCCビル
Tel/ Fax: 03-5217-2505 E-mail: nihon@jcfn.org
HP: http://www.jcfn.org

Printed in Japan
border-bottom