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2006年6月号  page1  page2


「二人のリーダー達の物語」

ミャンマーで。ある駅の一風景  インドネシアとミャンマー、この二つの国は多くの共通点を持っています。両国共に、百年以上欧米諸国に植民地として支配され、第二次世界大戦によって蹂躙され、独立と国のアイデンティティーを勝ち取るまでに苦難の道を歩んでいます。
 一九四五年、インドネシアは日本軍の投降の後、国家の独立を宣言しました。しかし再び大戦以前の支配を取り戻そうとオランダ軍が侵攻してきたため、国内の全ての民族と宗派のインドネシア人らは戦いを続け、正式に国の独立が認められたのはそれから四年後のことでした。
 ビルマ(現ミャンマー)人も又、独立を求めて植民者イギリスに対抗して戦っていました。第二次世界大戦中、ビルマは連合国により打撃を受け、さらにその後に敵国の侵攻を食い止めようとする日本軍によって、国内のインフラ施設も多く破壊されてしまったのです。
 独立運動の二人の立役者、インドネシアのスカルノとビルマのアウンサンの両者は、新憲法と新政府樹立の準備に奔走していました。両者共に、それぞれの国をある程度の政情の安定と経済成長の水準にまで引き上げるという、きわめて困難な課題に直面していたのです。
 しかしアウンサンは国の独立を見ることなく暗殺され、それにより、ビルマはより深刻な苦境の中に投げ込まれてしまいます。彼の死後、ウーヌが初代首相の座に着きました。
 こうしたカリスマ的な指導者に並んで、さらに二人の人物がそれぞれの国の形成に大きな影響を与えました。彼らの宗教的信仰が自身の行動と共に、この二つの国の将来の道筋をも決定したのです。
シマトゥパング氏  ネ・ウィンは一九一一年に中国人の血をひくビルマ人家庭に生まれました。彼の人生初期の出来事は、当時のビルマが独立を求めて葛藤していた軌跡を数多く反映しています。
 一九三〇年代からネ・ウィンは当時の反英独立闘争にさらにかかわっていきましたが、その統率能力が日本軍に認められて、「三十人志士」の一員に選ばれて日本から軍事訓練を受けました。彼は一九四三年には国軍の最高司令官になっていましたが、やがて日本占領軍に対する不満がつのり、イギリス軍が再びビルマに侵攻した際に、日本に反旗をひるがえします。終戦後間もなく交渉が始まり、ビルマは独立の動きへと向っていきました。
 タヒ・ボナ・シマトゥパングもインドネシアで似たような経歴をたどりました。一九二〇年に北スマトラで生まれた彼は、独立運動の熱心な支援者となり、スカルノの反オランダ国家独立運動に参加しました。
 状況を冷静に把握でき、さらに危険をかえりみない献身と忠誠心をも合わせ持つ彼は、同労者達の尊敬を集め、一九五〇年にはインドネシア軍の司令官に任命されました。
 しかし独立後すらも、インドネシアとミャンマーはさらなる困難に直面します。日ごとに冷戦が激化していく中、両国は共産主義陣営にも西側陣営にもくみすることを拒否し、非同盟運動に参加するのです。その結果、どちらの陣営からも経済的援助を受けることができませんでした。
 それぞれの国軍の将軍としてネ・ウィンとシマトゥパングは定期的に会合を持ち、友情を深めていきました。よくウーヌ首相とスカルノ大統領それぞれの政治上の問題点を検討しつつ、それぞれの草案を比較し合ったものです。共産主義の暴動の犠牲は高く、急激なインフレにより経済危機が起こり、汚職と癒着の悪習が国のあらゆる面での改善をはばんでいました。
ネ・ウィン氏  国内に沈うつな雰囲気が広まり、指導者らへの信頼感が急落していくにつれ、最初は小声でささやかれていた軍事クーデターの可能性が、やがて公に語られるようになりました。「クーデターがこの国を経済的破綻と政治的混乱から救う切り札となりえるだろうか?」
 シムタパングはルーテル派の出身で、教会のリーダー達にも相談するなど、クリスチャンの友人達を信頼していました。彼らは逆に皆、彼にこのように問い返してきました。「それは国のためなのか、それとも君個人の益を求めてのことなのか?」
 シムタパングは公然とスカルノに対し、異議をとなえるようになりました。ついには武力闘争にまで発展しましたが、シムタパングは結果がさらに不安定な状況をひき起こすと判断して引き下がり、一九五四年に辞任を決意しました。
 対照的に、ネ・ウィン首相の人生は占星術と数霊術に支配されていました。彼は軍事クーデターに突き進んでいきました。
 一九六二年、政治の実権を握ったネ・ウィンは極端な国粋主義、社会主義、そして仏教を融合した政策を取り入れました。ビルマにとっての国際的孤立化、そしてかつて豊かであった国が世界で最も貧しい国の一つへと転落する暗い時代の始まりでした。
 民族闘争が再び火を噴きました。ネ・ウィンによる政令はますます常軌を逸するようになり、不安定になり、その手段は容赦なく、かつ彼の権力はさらに絶対的なものになっていきました。こうしてビルマ国民はその後四十年続くことになる恐怖と猜疑心の中に放りこまれ、その影響は今も続いています。
ミャンマーにて  インドネシアも又、苦難にあえいでいました。一九六五年、共産主義者達が武力で国を掌握しようとしましたが、スハルト将軍によって頓挫しましたが、後にスカルノに代って政権の座についたスハルトは、共産主義に共感しているとみられる人々を容赦なく粛清し始め、何百、何千人という人々が犠牲となりました。しかしその後の三十年間は国にとって比較的平穏で、経済的にも上向きな時期となりました。
 一方シムタパングはインドネシア教会協議会の委員長となり、インドネシアの教会に献身的に仕えました。又、憲法の枠組みとイスラム教が主である国家的背景の中で、インドネシアのクリスチャンが信仰を表現しえる道を模索していきました。
 彼はこのことについていくつかの書物を著し、クリスチャン達に向って、異なる背景、信教を持つ者たちへの文化的、宗教的な配慮を持ちつつも、内向きにならないよう励ましました。
 シムタパングは一九九〇年に死去し、軍事的栄誉を授かって国葬とされました。国民は彼の死を嘆き悲しみ、クリスチャン達も、父親のようであり、平和主義者であった愛する「パック・シム」とのしばしの別れを悲しみました。
 ネ・ウィンは一九八八年八月八日に公的には辞任しましたが、その後何年も政界に影響力を持ち続けました。しかし新世代のリーダー達の中にはネ・ウィンに苦しめられた人々が多く、汚職の容疑でついにネ・ウィンは自宅軟禁となり側近らは逮捕されました。既に病んだ老人となっていたネ・ウィンは二〇〇二年十二月五日に死去。その死はほとんど注目されず、葬儀は同日にあわただしく行なわれ、参列者はわずか三十人ほどでした。
 ネ・ウィンとシムタパングが残したものは、それぞれの国で今も生き続けています。ネ・ウィンの独裁的な支配と完全支配への病的なまでの執着心は、今もミャンマーの指導者らに引き継がれています。その一方でシムタパングの高潔さも現在のインドネシアの指導者らの心に、良き模範として刻みつけられているのです。


「神にとどまり続けること」
カンボジア プノンペン 菅家庄一郎、容子

ベトナムで休暇:友人の木村志保さん、はるかちゃんと  「ぼくたちのやり方をきちんとやっていけば、もっと早くカンボジアの大学生たちが救われていくはずだった。でも、そうならなかったのは、リーダーたちがお互いにいがみあっているのと、教理がまちがっているからだと思うようになった。」「もともと、三位一体(父・子・聖霊なる神が一つであるということ)という教理は最初から納得がいかなかった。でも、だれもうまく説明してくれなかったし、伝道に忙しくて、神学を学ぶ暇はなかった。」ある福音派の伝道団体で九年間リーダーを務めたカンボジア人の言葉です。彼、L君とは、よく超教派の祈祷会などで会っていました。しかし、今は、彼は教会を去り、異端のグループに入っています。一度、喫茶店で会い、ゆっくり話しましたが、会話にはならないという印象をもちました。彼の上記のコメントが心に残っています。信仰の源である聖書・神学の学びを怠っていくと、こういう結果になるのだなと改めて思わされました。彼が異端の間違いに気づくようにお祈りください。また、カンボジアの教会の多くが、説教が聖書的でない、聖書を教える人がいない、という問題を抱えています。宣教師や牧師・教師が正しく御言葉を教えていくことができるようにお祈りください。(庄一郎)
 「神は人をご自身に向き合う相手として創造され、それゆえ人は神との歴史を持つことができる。」最近考えさせられていることです。先日、祈りの友数人と、今までの人生を振り返り、意味深い経験を書き出し、それらを通して神様に教えられ、取り扱われてきたことを表にし、分かち合う作業をしました。マイヒストリー(自分史)の背後にヒストリー(ヒズ・ストーリー、主の物語)を読み取ることができ、深い感動を覚えました。主は私達の人生に介入し、時間をかけて私達を砕き、教え、いやし、神がそう完成させたいと考えておられるまことの人、キリストに似たものにするため、熱心に働き、つくり変えて下さっている。そして、その一人一人の主との歴史は、どれも唯一つのユニークなものです。
 今日の礼拝後、牧師夫人に呼び止められて、彼女の婦人会での葛藤を聞く機会がありました。この教会の婦人会とは、第一期からの付き合いです。以前から嫉妬や分裂、陰口、不正が絶えず、人間関係の問題が尽きませんでしたが、その根っこの問題は未だに変わっていないことを再認識しました。牧師夫人は、心が変えられていないことを指摘していました。重荷を負いつつも望みを捨てず、奮闘している彼女に私は大きな励ましを覚えました。彼女も神との歴史を持っているからです。どうか、婦人たち一人一人が、また青年たちが、神と向き合い、みことばに真剣に応答し、悔い改めにふさわしい実を結ぶ新しい生き方に変えられていきますようお祈り下さい。(容子)

【祈りの課題】
1.以前祈っていただいたダヴィン兄は、仕事の関係でプノンペンからシエム・リエップに引っ越す予定です。よい教会・クリスチャンの友人が与えられますように。
2.鶴岡徹也兄と共に日本語を勉強しているセーンくん、マッカラーくんの救いのためにお祈り下さい。鶴岡兄が帰国しても、教会に繋がり続けることができるように。


「忠実な僕であり続けますように」
北タイ・ミェン族 有澤達朗、たまみ

14年ぶりの再会、杜師夫妻(左)と孫師夫妻(中央)と共に  去る四月末、嬉しい再会が二つありました。一つは一九九二年二月、新人宣教師研修の同期で一緒にタイ国へ派遣されてきた香港の杜氏夫妻(南タイ)と韓国の孫師夫妻(中央タイ)との再会です。派遣地区がそれぞれ別で同じタイ国内にいても皆揃って会うことは十四年間一度もありませんでした。久しぶりの再会に、お互い年齢は重ねてきたものの、それぞれ霊に燃え熱心に神様に仕えている姿に接し互いに励まされました。
 五十歳と言うのは何かの節目になるのでしょうか。孫師はこの三月からに新しい働きに就き、杜師は今年中に新しい働きへの導きが明らかになるようです。私達の方は今月中旬に主人が修士論文の審査を受けます。私はミェン語讃美歌改訂版練習用CD作成で四月末現在で残っている百二十曲の録音を今月帰国前に終え、各ミェン教会へ配布する予定です。そして、本国奉仕で今月末に一年間の予定で帰国します。「どこに遣わされても主の僕として忠実に謙遜に仕えることができますように」と互いに祈りあって別れました。
我が家に里帰りしたフィン兄と二人の弟たち  もう一つは チェンマイ大学の学びを終え、チェンライ県の村に帰っていた我が家の元下宿人フィン兄が小さい弟二人を連れて我が家を訪ねてくれました。フィン兄は妹二人と弟二人の五人兄弟。弟妹のお父さん代わりをしています。弟のサーンとスウにとってはチェンマイでの経験は全てが初めて。長距離バス、日本人の家、ミェン語を話す外国人、ミェン教会の礼拝、ミェン語の歌、ミェン語の聖書、みんな初めてでした。二泊という短いものでしたが、フィン兄が我が家に下宿人として滞在中の時から、ずっと弟達の救いのために熱心に祈って来ているので、初対面には思えませんでした。彼らは新学期に備えてカバンや靴を買って、嬉しそうにチェンライへ帰って行きました。どうぞ彼らの若い時に神様を信じますようにと祈りつつ見送りました。フィン兄は今月からバンコクで弁護士になる勉強と研修に入ります。彼の地でも神様の僕として生きることが出来ますようにと祈ります。(たまみ)

【祈りの課題】
1.今月中旬に達朗師は修士論文の審査を受ける予定です。5年の長きに渡ってこの学びのためにお祈りくださり心から感謝いたします。その締めくくりとなる審査まで心身だけでなくこの論文に関る全ての物、コンピューター、プリンターなど故障から守られますようにお祈りください。また、たまみ師はミェン語讃美歌改訂版のCD 完成と各教会への配布を目指しています。今月末の帰国までに全てが終わりますようにお祈りください。
2.今月末に一年間の予定で本国奉仕(帰国、巡回報告)のため帰国します。ここまで祈り支えて下さった皆様に心から感謝いたします。5年ぶりの方、14年ぶりにお会いする方もありますが8月からの巡回でお会いできるのを楽しみにしております。論文審査とCD 作成で荷造りがままなりませんが、帰国準備が守られますようお祈り下さい。


「休暇の恵みと学びの喜び」
吉澤恵一郎・香

機関車トーマス  四月のイースターホリデーに南イングランドの方に出かけて休暇を楽しみました。古いものを大切にするイギリス人は、各地に保存鉄道の名で蒸気機関車を走らせています。そして、イースターの時期には息子の大好きな機関車トーマスが走るイベントが開催されるのです。実は、日本にいた時から、イギリスに行ったらここに連れてくることを約束していたのです。しかし、英語も地理にも明るくない私たちには、雲をつかむような約束でもありました。英語の標識を見続けながら、往復八時間のドライブは少し疲れましたが無事に到着。初めて蒸気機関車に乗り、イギリスののどかな風景を楽しみながら、楽しい休暇となりました。また息子との約束を果たすことができ、父親の面目躍如(?)といったところでしょうか。
 いつもより寒い春と言われている今年のケンブリッジですが、花が咲き、鳥がさえずりよい季節を迎えています。語学学校も進級することができ、私たちの学びも神様に助けられていることを感謝しています。(恵一郎)
 英語学校でのクラスが、ミドルクラスに上がりました。英語力は、まだまだですが、英語でコミュニケーションがとれる楽しさを少し味わえるようになってきました。
 愛祈(八歳)は、仲良しのお友達が帰国中で、休み時間に一緒に遊ぶお友達を見つけられず淋しい時間を過ごしたようです。一方で、リコーダークラブ、合唱クラブ、フットボールクラブに参加し始めました。湧喜(六歳)の英語が目覚しく上達し、お友達との会話が自由になってきました。ときどき、仲良しのお友達とけんかをしたりもします。英語なので仲裁ができず困っています。愛祈と一緒にフットボールクラブを楽しんでいます。
 初めての外国生活、言葉の壁、そればかりではなく、様々な試練を通して神様に内側を探られる時を過ごしてまいりました。弱い時、力を失いそうな時、神様は確かに働いてくださり、大きなその御腕をもって助けてくださいました。イギリスで過ごす残された時間を大切に、今なすべきことを忠実に成していきたいと願っております。(香)

【祈りの課題】
1.多くの日本人との出会いが与えられています。吉澤師夫妻の生活が証となり、いくつかの日本語の集会にお誘いできるように。帰国される方々が、日本でも福音にふれる機会、教会に通う機会が与えられるように。
2.神様の助けをいただきながら楽しく、充実した語学の学びをすることができるように。


「クロチェ教会で主に仕える」
カンボジア・プノンペン  今村裕三、ひとみ

 四月はクメール正月でした。クメール正月の初日に七人姉妹の天女のうちの一人が、毎年交代で地上に降りてくるという神話があります。今年は六番目の天女でバナナが好物だそうで、お供え物をするためにバナナの値段が普段の四倍五倍に跳ね上がりました。それでも皆さんは祝福が欲しいので買っていました。
 これからの働きのことをOMF教会開拓チームのリーダーたちと話し合い、OMFが開拓しているクロチェ教会へ遣わされることが決まりました。その教会は開拓して八年目を迎え、私たちが最後にその地に住む宣教師になる予定です。過去にOMF宣教師が育てた数多くのクロチェ教会のリーダーが他の宣教団体に雇われる形で引き抜かれたりしたこともあり、独立するのに困難を経験している教会です。宣教団体の中には、そのような方法でリーダーを引き抜き、自分たちの教会を開拓していると献金先に報告している団体もあります。私たちの役割は開拓初期のように何か新しいプログラムを始めたりする働きではなく、すでに育っている現地のリーダーに委ねながら教会全体の働きを祈り、見、アドバイスを与える役割が期待されています。また、次の世代のリーダーの育成や教会の弱い部分を現地のリーダーとともに祈りつつ助けていきたいと思っています。現在、特に信徒説教者をあと二人育成すること、そして教会学校がない状況が続いているので重荷を担ってくれる方が起こされるように祈っています。六月中旬からクロチェの町に住み始めます。お祈り下さい。(裕三)
 「クロチェ教会の最後の宣教師になることを祈ってください」と二月にリーダーの一人に祈りを要請されました。候補地を祈っていた時にクロチェが頭に浮かんだことはありませんでした。なぜなら、そこはもうすぐ宣教師が引き揚げる教会と聞いていたからです。今年の教会開拓チームの年一回のフォーラムでも「宣教師がいかに教会から段階的に退いていくか」をテーマに話し合いました。現在クロチェ教会に仕えている宣教師の四人とも来年二月までに帰国予定です。つまりその後は私たち夫婦だけが、クロチェに残ることになります。本当は私たちより、もっと経験があり、語学が十分に出来る人が行くことが、ベストであると思います。現在、様々な困難は感じますが、心は平安が与えられていて感謝です。私たちの力不足がはっきりしているのでその分、神様の御業をよりはっきりと見ることが出来ると期待しています。
 また、お祈り頂いたエイズ患者のAさん(若いお母さん)は薬が効き、体調が落ち着き一山越えたようです。笑顔が多く見られ本当に嬉しいです。お祈り感謝しつつ。(ひとみ)

【祈りの課題】
1.6月中旬にクロチェに移ります。新しい生活が守られ、クロチェ教会での奉仕が祝福されるように。宣教師の数が減っていく中で、クロチェ教会員一同が霊的に強められ、自立できますように。
2.プノンペンで仕えてきた学生寮の学生たち、ダニー姉、訪問先の方々が相応しい方によってフォローアップされますように。

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