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クリスチャンリーダーシップ 36のステップ  D.E. ホースト
(D. E. Hoste, 36 steps of Christian leadership, OMF International, revised 1999, reprinted 2001,)

まえがき

 ディクソン・エドワード・ホーストという名前は今日それほど知られていません。しかし、彼がもっと記憶されるべき理由が三つあります。
 まず第一番目に、彼は第二代目の中国奥地宣教団の総裁でした。彼はハドソン・テーラーによって選ばれた後継者だったのです。ハドソン・テーラーの名前はよく覚えられていますが、その後継者の名前は忘れられてしまっています。しかし、そのような卓越した開拓者であり、伝説的な人物の後を継ぎ、その働きをさらに進めた人となれば、彼自身すぐれた人物であるに違いありません。ディクソン・ホーストはそのような人でした。軍隊で非常に厳しい訓練を受けた経験から、宣教団がまさに歴史的戦略的な時を迎えたとき、ホーストはその必要とされていた賜物と霊的な恵みを提供したのです。
 ホーストが覚えられるべき第二の理由は、逆説的でありますが、彼が忘れられるべき者として生きたということにあります。「(人々の)記憶に残るように生きなさい」とは、奮起させられる忠告です。しかし、神の恵みの実には別の面があります。「あなたは忘れられ、キリストが覚えられるために生きる」ということです。人々を奮起させる言葉はしばらくの間、多くの若者の心をキリストに対する献身の思いで満たすかもしれません。しかし、それを長い間持続させるのは困難です。ここでディクソン・ホーストは私たちにとって模範となるのです。
 彼がまだ若い宣教師であったときでさえ、人々は「彼の謙遜さに感心した」と言います。私たちはリーダーシップという言葉の罠に陥りやすいのですが、ホーストのリーダーシップはむしろ彼の本当に高ぶらない謙遜さのなかにあったという印象を人々はもっています。多くの人は彼の人格的な力に感化されるというよりも、みことばが言うところの「敬虔な力」に感化されたようです。私たちはそのような人により聞くのではないでしょうか。
 ホーストが覚えられるべき第三番目の理由は、彼の賜物であるところの祈り深さ、思慮深さ、知恵と伝道に対する情熱であります。つまり、彼の言葉における力よりも、その考えにおいてです。D.Eホーストは思慮深い人でした。彼は賢明にもこう言っています。「もし私が何か賜物を持っているとするならば、それはクリスチャンの原理原則を実生活に適応するところだと思います。」
 彼がどれだけ長くその総裁としての責任を果たしたかが、彼の誠実さを表しているでしょう。この時代に宣教団は、宣教師の数が780人から1360人に増え、364の整えられた教会が1200以上になり、伝道の拠点は400から2200以上になり、年間1700人の受洗者から7500人へと増えたのです。
 中国奥地宣教団の危機的な歴史的交差点において、宣教団は知恵のある頭脳と祈り深い心をもったリーダーが与えられ、その安定した手腕は宣教団を未来へと導いたのでした。この本を読み進めるにつけて、ホーストに助言や励ましを求めた多くの人が受けたであろうものをほんの少し知ることができます。
 これらはもともとアラン・スティッブス師によって抜粋されたものです。この再版は無条件に神に仕えたいという願いをもつ若い青年男女にD.Eホーストの知恵とリーダーシップのスタイルを教えることでしょう。これらの青年たちの中から来るべき新しい世紀のキリストの教会を導く人たちが現れることでしょう。
 「クリスチャンリーダーシップ 36のステップ」は小冊子ですが、内容はそのサイズに合わない素晴らしいものです。個人的にはもっと以前にこの本に出会っていたら、と思います。

シンクラー・B・フェルグソン
聖ジョージ・トロン教区教会、グラスゴー、スコットランド

ディクソン・エドワード・ホーストの略歴

 ディクソン・エドワード・ホーストは王立陸軍アカデミーで学び、砲兵隊に勤務した。彼は10人兄弟の3番目として軍人の家庭に生まれ、軍隊生活の常として引っ越すことが多かった。そのような大家族が新しい家や新しい学校に落ち着くのは、相当大変なことであったと思われる。おそらく、このような頻繁に古い友人と別れ、新しい友人を作らなければならない生活環境によって、彼はむしろ内向的でおとなしい人となったようだ。

 ディクソンの両親はクリスチャンであったが、彼自身は幼少のころから青年期に至るまで霊的な事柄にむしろ無関心であった。ワイト島に駐在していた1882年、彼は引退してブライトンに住んでいた両親を訪ねた。これは彼の将来を決定づける非常に大切な数日となった。町ではアメリカの伝道者D.L.ムーディーによって伝道集会が開かれていた。彼の家族同様、彼自身非常に驚いたことにディクソンはこの集会に足を運んだのである。21歳にして、ディクソンは自分の人生を省み、クリスチャンになったのである。

 ディクソンの兄ウイリアムはその頃ケンブリッジ大学の学生であったが、友人たちとハドソン・テーラーの小冊子「中国―その霊的必要と求め」を読み、非常に感動していた。彼らとの討論からディクソンは中国への関心を深めていった。それから2年の内に、彼は宣教師としての働きに召され、1885年2月、かの有名な「ケンブリッジの7人」(注:ディクソン以外の6人はケンブリッジ大学出身のため、そう呼ばれた)の一人として上海へ向けて出港した。
1894年彼はベンジャミンとアメリア・ブルームホールの娘であり、ハドソン・テーラーの姪であるゲルトリューデと結婚。3人の息子が与えられた。ホーストは彼の役割上、霊的に非常に厳しい人だという印象を与えるが、しかし宣教団の子どもたちにとっては、そうではなかった。彼は子供が大好きで、一緒に時間を過ごすことを楽しんだ。

この多面な顔をもつ男をこういう人だと決めつけることはできない。中国の状況は非常に困難を極めていた。彼の元来の気難しい軍人的性格が極度に試されたであろうことは容易に想像できる。西洋の便利で居心地のいい生活を離れ、ホースト家は中国人の生活をそのまま受け入れたのである。しかしながら彼はこう冗談を言っている「私は大金持ちとなったことだろう。美しいものが好きだからね。」

 1990年、ホーストは結婚して6年が経っていたが、ハドソン・テーラーはホーストを後継者として、宣教団の総裁に選んだ。それは非常に困難な年であった。皇太后に後押しされた義和団の変は57人の宣教師を死に追いやり、何千人もの中国人クリスチャンが拷問され、その内の多くは挙句の果て死に至った。宣教団と中国の教会は受難と栄光、死といのちという偉大な福音のパラドクス(逆説)をにわかに、そして新たに理解することとなったのである。ホーストが宣教師たちをリードし始めた時というのは、このように宣教師たちが神の助けのもと困難な事柄と闘っていたときなのである。ホーストは35年間指導者としての任に留まった。ハドソン・テーラーと全く同じ年限である。
 ホーストは通算すると60年間中国で過ごし、1945年妻ゲルトリューデの死の直後に帰国した。古書店を探し回ってでも、1947年に出版されたフィリス・トンプソンによるホーストの伝記「神と共にいた王子(Prince with God)」を手に入れられ、読まれることをお勧めする。

霊的なリーダーシップについて

ステップ1
 真のクリスチャンリーダーシップのしるしとは何か、ここに挙げてみよう。
 もし、クリスチャン指導者が、その地位からくる権力によって人々に従順を要求するならば、その人は暴君となる。霊的な指導者は、違ったやり方をするであろう。むしろ他の人々の考え方に影響を与えようとするのである。霊的な指導者は、機知と共感によって人々を扱い、祈りによって、霊的な力と健全な知恵を引き出すだろう。霊的な指導者は早合点しないのである。

ステップ2
 すべての事実が明らかになるまで判断を待つということは、容易ではない。しかし、私たちが複雑な問題を取り扱うために導きを必要としているときには、とても大切な態度である。とても優秀な人が、むしろこのような態度をとれないことに時々気がつく。事実、このような態度をもっている人はまれである。指導者は、その事柄についてのすべての証言を聞くまでは判断をせず、熟考しなければならない。このようにして、霊的な指導者は、健全な結論に達するようになり、その結果によって、影響を受ける人たちを正しく導くことができる。人々は霊的な指導者に、また彼の判断の正しさに信頼をおく必要がある。

ステップ3
 私は、時々、OMFの総裁として、どんな仕事が一番難しいかと尋ねられることがある。
 それは、最も年上の同僚の考え方や行動に影響を与えることである。そして、それは、おそらく最も効果的な働きでもあると考える。そのためには霊的な指導者は、「まさに神のことばを語っている」(1ペテロ4:11)ことを知る必要がある。それは、神に対する聖なる畏れと他者に対しての正しい心の態度が求められる。霊的な指導者が暗闇の力と真に戦っていなければ、彼は同僚と戦うことになるだろう。パウロはこう書いている。「主のしもべが争ってはなりません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。」(2テモテ2:24-25)

 人々の考え方に影響を与えるということについて:人々を養うための「パン」を得ることは容易ではない、という主イエス・キリストの教えを私はよく思い起こす。もし私たちがみことばから霊的な真理をだれかに分ちたいのなら、私たち自身の霊的な生活を注意深く守る必要がある。たとえ、私たち自身が葛藤していることであったとしても。「まっすぐなことばはなんと痛いことか」(ヨブ記6:25)「訓戒のための叱責はいのちの道」(箴言6:23)の言葉を考えてみよう。しかし、ここでも、これらの言葉を伝えるのは簡単ではないことがわかる。

指導者としての資質について

ステップ4
 いろいろなタイプの人々を受け入れることができる能力が指導者の資質として最も大切なものの一つだと私は信じている。一人一人が異なる賜物や能力をもっている。そして、私たちは彼らの性格に従って、彼らがそれらすべての点において用いられるように助けるべきである。

 私の経験からすると、彼らが他の人々とどのように接しているか、様々な場面においてよく観察することによって、人々をよく知るということがどれほど大切かと感じている。たとえば、私はかつて、ある人が、ある仕事にとても向いていると思っていた。しかし、時がたつに連れて、私は、その人が他者から学ばないこと、彼がすでに学んだことを自分の考え方にも、生活様式にも織り込んでいくだけであることがわかった。歴史を見れば、多くの偉大な政治家や軍隊の指導者がこのような考え方の持ち主であったことがよくわかる。

ステップ5
 時がたつにつれて、私は、教会の出来事を正しく扱ったり、他の働き人を導いたりする霊的な人々と道徳的な資質は、すべての人生経験をもった人の中に見られることをますます確信するようになっている。社会的背景は、その点においては、あまり重要ではない。決定的なことは、それらの人々は、真に祈りの人々であり、自分自身の判断や衝動を信じないで、聖霊によって導かれ、教えられることによって自分の意見を形成し、それを現わす人である。私たちは、基本的で聖い真実に立ち戻るのである。それは、霊的な人というのは、実際的な人である、ということである。

ステップ6
 規約を作り決断する立場にいるものは、もし多くの反対があるならば、しばしば自分が行いたいと思っていることを修正する必要がある。これらの計画されたプロジェクトや行動予定は、あらゆる点において良いものであるかも知れないが、それらによって影響を受ける人々が賛成しないのであれば、決定を遅らせることがより賢明である。

 ハドソン・テーラーが難しい状況をどう扱ったかという点において私に与えた影響を決して忘れることはできない。彼は、反対を受けることが、それらの事を変更しないままでおくより問題があると判断した場合は、よく自分の計画を修正したり、または、しばらくの間その計画を放棄したりした。彼に反対する人々の心が変えられるように忍耐強く祈った後で、彼は変化を導入することができたのである。この種の忍耐強い祈りが、ほとんどの人が考える以上に働きの発展のためには実際的かつ決定的な役割を果たすのである。

指導者になるための準備

ステップ7
 ダビデは彼が経験した苦難と危険によって整えられた。辛いことであっただろうが、サウルが失敗したような失敗から逃れるためには、このような過程を通って学ぶことが必要であった。神の奉仕において実を結びたいと願うものは、ダビデの生涯から多くのことを学ぶことができる。たとえ物事がうまくいかなくなったとしても、計画がだいなしになったとしても、さらには、他人から信頼を失い、はずかしめられるようなことがあったとしても、あきらめてはならない。それは、「神の大いなる御手の中で身を低くする」時、詩編131編の御言葉にあるように、「乳離れした子のように御前にいる」時なのだ。そのような経験が、私達の生活に訓練が欠けたとき、自分の意志や自分の力でなんとかしようとすることを捨てさせる唯一の方法なのである。

ステップ8
 もし、だれかが、自分の状況に閉じ込められていると感じたり、人生がうまくいっていないと感じるならば、そのような人は、ヤコブ書の言葉を黙想すべきである。「忍耐を完全に働かせなさい。」(ヤコブ書1:4)人が自分にふさわしいと感じる役割を主張し続ける限りは、アブラハムの神は、後に与えようと願っている奉仕のためにその人を訓練することはできないのである。

同労者との関係

ステップ9
 私達は皆、神の祝福の器として神に用いられたいと願っている。私達が願うように神に用いられるかどうかは、他の人との良くない人間関係によって妨げられることがある。そのことをよく意識しておくべきである。もし、私達が他のクリスチャンや他のクリスチャン・グループとうまくやっていくためもっと努力するなら、私達は、神の働きにおいてもっと実りあるものとなるのではないかということを自問よう。私達は、壊れた関係を修復するために自ら進んで動く用意ができているだろうか。私達は、ひびわれた関係がいやされるために、傷つけられたという思いを横において、お互いの失敗を告白しあい、互いに謙遜になるべきであると命令されている。

ステップ10
 その働きの初期の頃から、主イエスキリストは、どんなことでも他の人に対して悪いことをした場合には、それを出来る限り正す必要があることを明らかにしていた。(マタイ5:23-24)すなわち、もし、私達と他のクリスチャンとの関係が正しくないならば、神は私達の奉仕や捧げ物を受け入れてくださらないのである。多くの場合、霊的な枯渇状態や実りのない奉仕は、このような教えが無視されているという事に、その原因を見つけることができる。

ステップ11
 罪はどのようなものでも聖霊を悲しませるが、とりわけ、他の主にある兄弟に対する苦々しい思いは、聖霊に特別な痛みをもたらす。同様に、クリスチャンの間の愛と一致は、特別な祝福をもたらす。

ステップ12
 もし、私達が様々な点で聖霊を悲しませているにもかかわらず、聖霊は私達を離れず、共にいてくださるのであれば、私達は、他のクリスチャンと一緒に働けないということはできる限り避けるべきである。自分自身の失敗を思うとき、また、私達がどれほどまちがいを犯すものであるかを考えるとき、私達は、もっと他のクリスチャンたちに対し優しく、忍耐をもつべきではないだろうか。彼らは単に、私達と同じような恵まれた状況にいなかったのかもしれないし、過去に学ぶ機会がなかっただけなのかもしれない。

ステップ13
 主がアブラハムを故郷や、心地よい生活から召しだされたとき、私達は主がアブラハムに助けとなり、共にうまくやっていける仲間を与えてくださるだろうと期待したかもしれない。

 しかし、主はそうされなかった。実際に、ロトはある程度の信仰をもってはいたが、弱く、自己中心で霊的ではなく、力と慰めの源となるというよりは、緊張と心配の原因となった。

 アブラハムはこのロトとの人間関係をうまく扱わなければならなかった。主がもたらされた試練と訓練は、アブラハムが「多くの国々の父」となるために必要であった道徳的、霊的な資質を作り出すために主の用いた手段であったのである。

どのように人々の中から最良を引き出すか

ステップ14
 初代教会を形成し、のちに新しい地域に教会を生み出していくこととなる弟子たちを主イエスはどのように扱われたか考えてみよう。彼らの洞察力のなさ、不信仰、高慢、心のかたくなさ、落ち着きのなさ、そのほかの失敗をイエスは忍耐強く受け止められたのであった。イエスはただ単に彼らを忍耐をもって受け止めただけではなく、彼らに奉仕をまかせ、主の力を与えてユダヤ人への使者として彼らを派遣したのである。
 とりわけ、イエスは彼らのために常に祈られた。イエスが弟子たちを取り扱う上で見せた勇気、信仰、そして希望はまさに注目すべきものである。これらは、偉大な指導者の決定的な資質である。

 何度も繰り返して、聖書が示していることは、最初はあまり期待できそうもない人が、重荷を担うように任されること、危険に直面すること、決断すること、困難な時を通ることを通して、偉大な神のしもべとして成長することである。彼らは、時につまづき、試練の中で倒れてしまうことがあることは事実である。しかし、箴言に書かれてあるように、「正しいものは七たび倒れても、また起き上がる。」(箴言24章16節)

ステップ15
 教会の指導者たちが人のうちにある可能性を見抜けなかったがゆえに、教会は主の働きに用いられることができたはずの人々を失ってきたと思う。その代わりに、彼らは失敗や弱さのために追い出されてしまうのであるが、実際には、そのような失敗や弱さがあったとしても、正しい共感を受けたり、価値を認められることによって、そこから成長できるはずである。

 私達はいとも簡単に画一的に、狭量に、批判的に他の人、特に若く経験のない人たちを裁いてしまう。そうすることによって、私達は指導者として失敗するのである。中国のことわざに次のようなものがある。「良い支配者は他者をうまく用いることができる。」言い換えれば、よい指導者は、人々の限界を考慮しながらも、様々な人々の賜物の範囲を感じ取り、見出すことができる。よい指導者は、ある特定の賜物をもっている人は、よく他の領域においては欠けがあることを知っている。私達は、異なった能力をもっている人々から構成されるチームが必要なのだ。よい金槌で穴を埋めることはできないし、のこぎりで釘をうつことはできないのである。

神からのことばのように語るということ

ステップ16
 十分な時間をかけて御言葉を学んだり、祈ったりして、主から聞き学ぶということがなければ、私達が神の働きを行うために、神のみこころを判断することはできない。私達の奉仕における霊的な力、すなわち、人々にキリストの必要を示すための力やクリスチャンの信仰を建て上げるための力は、とりなしの祈りという骨の折れる労を通してのみ与えられる。

 私はこのことについての主の教えを理解し始めたときに、自分の中に与えられた影響というものをよく覚えている。主は、クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、個人に対してであろうと、グループに対してであろうと、ふさわしい言葉を語ることは簡単ではないだろう、と言われた。

 神は人をえこひいきされる方ではない。同労者であろうと、教会員であろうと、未信者に対してであろうと、他の人を養うための「パン」を求めて祈り続けるキリストのための真実な働き人には、実り豊かな奉仕が与えられるのである。私は、人々が奉仕における助けを求めて、あるいは個人的な問題のために私のところへ来るとき、ふさわしい返答の言葉を求めて、しばしば、数日を祈りの中で過ごすことがある。このことについて、ルカ11:5-10のたとえを考えてみよう。

  「あなた方に言いますが、彼は友達だからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」

 主イエスは弟子たちに、もし彼らが主の命じたことを守るなら、彼らは主の友であると言われた(ヨハネ15:14)。それは、私達にも当てはめることができる。私達が神のもとへ行く時、その友のようである。他者に与えるための「パン」を必要としているのだ。私達は他者のためのこのような継続した祈りの大切さをどれほど知っているだろうか。

ステップ17
 他の人を教えるときに、神を待ち望むということについて、ふさわしい強調をしているだろうか。神にえこひいきはない、とはなんという真理であろう。おそらくあなたがたも私のように、自分よりも信仰暦は短くても主にあって力強く歩んでいる人から偉大な霊的助けを得たり、元気づけられたりしたことがあるでしょう。時にこのような経験は、私達よりずっと霊的に成熟した人と話したときに、むしろ霊的な助けを得られないという経験と対照的である。

 私達が導きや方向性を主に求めていないときに、神に信頼しているというのは矛盾したことである。主を待ち望むということを学んだことのない人や神によって考え方が形作られていない人は、指導者が必要としている揺るがされることのない目的や静かな信頼というものを決して得ることはできない。そして、そのような資質なしに、危機や困難の時に他の人に賢く影響を与えることはできないのである。

祈りの実践

ステップ18
 あくまで個人的な意見であるが、私は断食することはよいことだと思う。この件に関して、私はだれに対しても、規則として押し付けるつもりはないが、断食をして、祈るために時間を取ることは、私にとっては有益なことであった。しばしば祈るための時間がないと言うことを聞くが、食事をするために1時間や2時間費やすことには、私たちはなんとも思わないのである。そうならば、なぜ、時には食事の代わりに祈ることをしないのだろうか?私は、そうすることは、霊的に益があるとわかったし、消化にも役立つと思う。

ステップ19
 もし、私達の目には見えない永遠のヴィジョンが、輝き続け、真実であり続けようとするならば、祈りと聖書の学びによる日々の主ご自身との個人的な交わりが、どれほど大切であろうか。このような訓練によって、私達は誘惑や悪魔のわなから守られるのである。そして、この習慣によってのみ、落胆や悲しみのときにも助けをえることができるのである。

ステップ20
 私達は、若い信仰者たちにどのように祈り、どのようにとりなすかを教えるべきであり、また彼らの生活の中で、祈りが成長するように労すべきである。私達が彼らに教えるべきすべてのことの中で、この教えが最も優先的に教えられなければならないにもかかわらず、見落とされることがある。しかし、私達自身が祈りの人でなければ、また、この聖戦において真に神に対して生きていなければ、私達は、他の人に、そうなるように影響を与えることはできない。祈れば祈るほど、さらに祈りたくなるものだと私は確信している。そして、その反対も真実であると確信している。

本当の謙遜

ステップ21
 「すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。」(テトス3:2)パウロはテトスに忍耐、柔和、そして優しい態度をもつ必要があることを教えるように、と求めている。「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」(箴言14:29)

 謙遜と忍耐の欠如は奉仕の妨げになり、また影響力や能力を発揮できたはずの働きが実りのないものに終わってしまう。

ステップ22
 神は怒るのにおそい、と言われる。すべてのクリスチャンは、間違ったことや不正に直面したときに、落ち着いた、忍耐強い態度を保つように心がけるべきである。しかし、これは、霊的な指導にあたっている者にとっては、特別な必要である。

 「争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いの起こらないうちに争いをやめよ。」(箴言17:14)

 人と争いそうになった時はいつでも、争わずにすむように主にあわれみを求めることが大変重要である。代わりに、主を待ち望んで静まるようにし、主の力と導きを求めるべきである。このようにしてのみ、私達は応戦的な態度になることなく、他者の間違いや言い争いに対処する準備が出来るのである。

ステップ23
 私たちは他の人たちの弱さや過ちを見るとき、彼らに対して、容易に忍耐を失い、見下した態度を取ってしまいがちです。また、ある人たちが他の人に対して、残忍に振る舞うのを見ると、自分はそのようなことをしない、と残忍に振る舞う人たちよりも自分を優れたものかのように自負しやすいものです。これは、ルカ18:9-14に見られるパリサイ人の過ちです。彼は自分が他の者より優れていることを心から神に感謝しました。しかし、その態度は間違っていると、主は仰せられたのです。私たちの罪意識というのは、自分の行動によって測られるのではなく、与えられている機会の中で、神様の基準を満たしているかどうかによって測られるのです。この事をしっかりと理解することは、他の人との比較において、真に自分が何者であるかを評価する助けとなります。神様の視点から他の人を見るという事は、より正しく人を見ることになり、キリストが死んで下さったほどの人々として、私たちが他の人を尊ぶように導きます。こういう態度が実り豊かな働きへの鍵なのです。

「主はご自身をいやしくし・・・」

ステップ24
 神の子が人となられた。彼が地上にいたとき、彼には、人々の従順を要求することができる権利があった。彼は、創造主であり、ダビデの王座につく方であり、彼の個人的な性格やふるまいは、完全に非難されるところのないものであった。これらの権利は単に無視されただけでなく、足の下に踏みにじられた。しかし、主は、それらの権利を神の力や人の力によるいかなる訴えによっても、主張されようとはしなかった。

 イエスは殺された。それは、あたかも彼の道が閉ざされたかのようであった。なんという模範であろうか。私達も神の恵みによってそのように応答できるようにと願う。神の知恵と人の知恵はいかに異なるものだろうか。これこそが、真の勝利と結実への道である。独断的で、自分の権利を主張する態度は、霊的な敗北と不毛に終わるだけである。

ステップ25
 本物のクリスチャン生活とは、キリストの命が私達自身の置かれている状況のなかでどう働くかということである。

服従の秘訣

ステップ26
 あなたは今までに自分が信頼していたもの―家族や仕事、友情や健康―が取り去られるという経験をしたことはありますか。そのような経験に対して、文句を言わないこと、また、もしそれが他の人々の失敗によってもたらされたとするなら、そのことを何度も何度も思い出さないことは、なんと大切なことだろうか。そうでないと、私達は簡単に苦々しい思いになってしまう。

 そして、物事がよくなるかわりに、もしろ、私達に害をもたらしてしまう。パウロは、ローマ8:28で、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています。」と言っている。ここで注意してほしいのは、「神が愛する人々」ではない、ということである。神はすべての人を愛している。私達は、具体的に、私達の経験において神を愛し、静かなゆるぎない信頼を神におき、神に忠実であり続ける必要がある。それが、服従の秘訣である。

ステップ27
 もし、誤解が生じたときに、私達は、謙遜な態度をとることができるだろうか。軽蔑されたり、傷つけられたりしたときに、自分を正当化することなく、対処できるだろうか。神がふさわしいときに高くしてくださることを信じて、神の力強い御手のもとにへりくだることができるだろうか(1ペテロ5:6)?それが行いによって信仰を示すということである。

自己訓練

ステップ28
 時間をどう用いるかということについて、敏感な良心をもつべきである。多くのクリスチャンが、時間をどう用いるかということについて、だれにも説明責任がないということが怠惰への誘惑となっている。

ステップ29
 決められた時間割やスケジュールをもっていたとしても、怠惰になる可能性はある。心をこめることも、準備もなしに、いい加減に仕事をすることはできる。大衆の前の説教の準備をするときには、誠実に準備するかもしれないが、私は自分のことを考えると、少人数の人々の前で話す準備をしているときに、軽率な態度が入り込んでくることを警戒する必要を感じてきた。どうか、私達が、いつでも、どんなときでも、主の恵みにより自分のベストをつくすことができるように。

ステップ30
 新人宣教師のグループが宣教地に最初に到着するとき、その能力、熱心さ、純粋な性格によって、ある人たちが将来有望に見えることがよくある。「彼は、きっとすばらしい働きをするだろう。」と思う。しかし、よく観察すべきである。しばしば、最も目立たない、賜物の少ない宣教師が我慢強さ、勤勉、献身によって成功を収めることがある。

苦しみが私達を形作る

ステップ31
 あなたは雄牛か雌牛が祭壇と鋤の間に立って「どちらにでも準備万端」と下に書かれている絵を見たことがあるだろうか?エフライムは、ちょうどこれと反対であった(ホセア10:11)。彼は犠牲や労苦を伴う奉仕よりも、安易な生活を好んだのである。エフライムはもともと12部族の中でも、特別の意味のある立場が与えられていたことを思うと残念なことである。しかし、この特別の立場というものは、特別の重荷や他の人々に代わって犠牲を払うということも、意味するのである。

ステップ32
 もし、私達が本当に神を誠実に愛するなら、非常にひどい痛みを伴う試練にあうことを主が許されるということを驚いてはならない。そして、それが、私達のよく知っている人によってもたらされるとしても。試練は続く。それは、単なる嵐のように来ては去るものではなく、ずっと続くものである。

 主が私たちをずっと見ておられると、私は信じている。もし、私達が、キリストにある信仰によって戦うならば、たとえそれが、つらい対立であったとしても、私達はさらに深くキリストの苦しみに預かることができる。ヘブル人への手紙の作者は、「もし、最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば」(ヘブル3:14)私達はキリストにあずかる者となる、と書いている。これは、偉大な原則である。それは、私達が最初に信仰を告白したときから始まり、終わりまで続く。そして、主は言われるであろう。「さあ、私の愛する子よ、あなたは、私の恵みにより、勝利した。あなたは、私があなたのそばにおいて、あなたに大きな悲しみをもたらしたあの若いキリスト者を愛し続けた。今、私はあなたをもっと信頼できるようになった。」

「今のこの状況」を超えて目をあげること

ステップ33
 すべてのクリスチャンは自分の家庭、友人、仕事、教会において、それぞれの義務があり、それらのことに大部分の時間とエネルギーを注ぐということは、正しく適切なことである。しかしながら、世界中における神の人々と、神の働きについて、祈り深く、同情的な興味を持ち続けることは、きわめて重要である。

 主が弟子たちに目を上げて畑を見るように、そして、収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈るように、と言われたことを思い起こそう。そうでないと、昔のことわざにあるように「見えなくなれば、忘れ去られる」という言葉が、すみやかに現実のものとなってしまうだろう。

他者を必要とすること、そして、他者から学ぶこと

ステップ34
 私達はキリストのからだの一部であることを忘れてはならない。また、神の霊がそのからだ全体に働いているということを忘れてはならない。どんなに年長者であっても、私はあなたを必要としない、ということはできない。このような言葉を実際に口にすることはないかもしれないが、行いがそう語っていることがある。それはお互いに支え合う必要はなく、他のクリスチャンの祈り深い判断の必要もない、と言っているようなことになってしまう。

ステップ35
 小さな者たちの中の最も小さな者を軽蔑しないように気をつける必要がある。私はかつて十代の頃、自分は何でも知っていると思うことがないように、と警告されたことを思い出す。しかし、年月が経つと、誘惑も変わってくる。老人は、若い人からは何も学ぶことがないと考えやすい。それは、もっと悪いことではないか。若い人には、私達が賞賛すべき宝があるし、私たちが得るべきものがある。

ステップ36
 聖書に記録されている言葉の中で、主イエスが最初に弟子たちに語った言葉は、「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)である。そして、パウロは「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人は、まだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(1コリント8:2)と言った。主の働きにおける経験は、すばらしい祝福であるが、それは、もし真の謙遜や聖なる「心の貧しさ」が伴っていなければ、妨げにもなりうる。

 若い人や、より経験の少ない人は、物事を新しい角度から見ることを教えてくれる。もし、私達が彼らに聞かないならば、私達の経験は、さらに新しいことを学ぶということを妨げてしまうだろう。神は、与えられた状況において、私達に何か新しいものを見せようとしておられるかもしれないのである。

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