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AFMCに参加して  矢吹 拓

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

今回AFMC 7thに参加する機会が与えられた恵みに感謝しています。
与えられた恵みとチャレンジを振り返ってみようと思います。

■全生活を通して主を証ししていくこと
 私は日本で勤務医として働いています。医師を志したきっかけは、小学校時に知った国際飢餓対策機構の働きを通して、「困っている人々に仕える医師になりたい」という思いが与えられたからでした。”医療伝道”、”福音宣教”という思いを抱えつつ、目の前の仕事に追われる日々が続いていました。でも、今回のAFMCを通して、仕事と宣教・伝道を切り分けるのでは無く、仕事も含めた全生活を通して主を証していくことを教えられました。
 福音宣教と聞くと、とかく海外に出て宣教師として働くというイメージが強かったのですが、自分が働いている職場や与えられている家族・親族も、まさに世界宣教の場として祈られていると感じました。自分にしか福音を伝えられない方々がいることも気付かせて頂きました。私には、今確実に遣わされている場があり、そこで日常的に接する方々に対する責任があることを強く感じ、日々の生活を通して証していく、福音を伝えていくことの重要さを思わされました。日本というフィールドが多くのアジアのクリスチャンから祈られていることも目の当たりにし、感謝とともに自分もそこに責任があるなという思いを新たにされました。一方で自分が海外宣教に導かれていくかどうかも引き続き祈っていこうと思います。日本か海外かは大きな差はないと思いつつ、自分の中に海外宣教という思いが与えられている事も一つの事実として、神様に取り扱い続けて頂きたいと今思っています。

■共に分かち合い祈り合える仲間
 多くの仲間が与えられました。グループワークやワークショップを通して、日本が多くのアジアの方々から祈られていること、日本で宣教師として働きたいと思っている方がたくさんいることを感じました。そして、国籍・言葉が違っても、心から祈り合える仲間は素晴らしいと思いました。神様が一つにして下さっているのを感じました。グループリーダーの兄弟は、言葉が不自由な私を気遣い個人的に声をかけ、食事を取り、祈り合う時間を取って下さいました。言葉が不自由な分、取り繕えずに自分の現状をストレートに話す機会となりました。宣教への思いを感じながら、日常的な神様との交わりや自分の周囲への証も十分とは言えない現状を聞いてくれ、心からその為に祈ってくれました。言葉や文化の壁を越えた素晴らしい時間でした。
 日本からも多くの兄弟姉妹が参加しており、共に祈り分かち合える素晴らしい仲間達でした。それぞれの置かれた中で主に仕え、将来を祈っている姿を間近で見ることが出来たことは感謝です。自分は医師という職業ですが、同じ職業を持ちながら、それを活かして主の為に働いている兄弟姉妹を目の当たりにする事ができたことも大きな喜びでした。特にOMF総主事のパトリック・フン先生の証を日本メンバーみんなで聞く機会が与えられ、宣教師として導かれたきっかけについて聞くことができました。

■みことばからのチャレンジ
 多くのみことばとチャレンジが与えられました。印象に残ったこととして、メモを元に書き出してみようと思います。
> Our primary calling is live the life of Jesus.
> Basic response is to lead others into Kingdom of God.
> Everywhere to Everywhere.
> Unity is power of God.
> Joy of the LORD is my strength.
> どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。ローマ15:13

他にも多くのメッセージがあり本当に感謝でした。このような素晴らしい機会が与えられ心から感謝しています。

AFMCに参加して  上田 優子

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 2013年夏、ペルセウス座流星群を長野の山奥で観測する機会に恵まれました。満点の星空の中にスーっと光を放って流れていく光景に、歓声をあげながら、天地宇宙の創造主である神様の御業の大きさとその被造物の美しさに圧倒されました。
 この星空を見た時のように、今回初めて参加したAFMCは、神様の偉大さとその御業をかいま見る、喜びで満たされた、とても感謝なひとときでした。講師による聖書のメッセージ、各国から集まった兄弟姉妹との分かち合い、そしてワークショップ等を通して、生きて働かれている神様が世界各地においてその業を休むことなく続けておられることをより具体的な形で知ることができました。特に、ディアスポラ伝道の働きについて知ることができたことは大きな収穫でした。グローバル化する社会の中で人々が移動し、福音に出会うチャンスは広がっています。そして神様は出会いを与えてくださっています。その与えられている関係の中で、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ書12:15)というみことばのとおり、相手を受入れ、寄り添って、キリストの愛をもって接していく働きがあることを教えられました。そして、今の自分にも遣わされている場においてできることがまだまだあることに気づかされました。
 さて、ペルセウス座流星群を観測した夜は、途中から雲がでてきたため、輝いていた星々は隠れ、あっという間に暗闇に包まれました。しかし、一度脳裏に焼き付いた光景は離れず、雲の先にある星々の様子を思うことができました。同じようなことが、私たちの人生の中においても起ります。たとえ暗やみ-危機や困難の中を歩むときにも、そのただ中に主が共におられること、そのあわれみを見続けることができる者の幸いを覚えたいと思います。そして、主のご計画、主の時を待ち望みたいです。また、宣教の地において奮闘されている働き人のことを覚え、祈ることによってその働きに関わっていくことができればと思わされました。

AFMCで受けた恵み  菊地 佐和子

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 5年前に今の職場で働き始め、色々な意味でカルチャーショックを受け、数ヶ月たつうちに大小さまざまの問題や自分の能力の限界にぶつかり、神様はなぜこの職場に私を導かれたのだろうか、これが本当に御心だったのだろうかと疑ったことが幾度もあった。なんともヨロヨロとした5年間の歩みだった。もちろん神様は、私が倒れそうになる前に私を励まし、力づけてくださった。そして今後の進路について考え祈り始めたころ、AFMCのことを知り、参加することに決めた。このタイミングで神様が私に語りたいと願っていらっしゃることはなんだろう、と期待して臨んだ。実際には、最終日が近付くにつれてやっと耳が英語に慣れ、静まってみことばを聞けるようになった、というのが本音。そして最終日の夜のメッセージで、図らずもこれからのことよりもむしろこれまでの歩みを振り返らされた。「その場にとどまり、人々にコミットし、忍耐しようとするなら、それは代償を伴うことだ。」というアジス師の言葉に、ヨロヨロしながらもその場にとどまりふんばってきた5年間を、神様がよしとしてくださっているだろうと励まされた。また同時に、これからの歩みが具体的には見えないが、それがどんなところであっても(そしてもちろん教会においても)、新しく忍耐とコミットメントが求められるのだ、と気を引き締められる思いがした。「人の子が来たのも、仕えられるためでなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。マルコ10:45」それこそがキリストの歩みに倣う生き方であるのだから、私も神様によって押し出されこれからの一歩を歩み出したいと思わされた。

第7回 アジア・フロンティア・ミッション・カンファレンスに参加して  庄司 まりや

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 たくさんのことを学んだのですが、最も心に残ったのは「宣教はチームだ」ということです。宣教、と聞くとつい自分には関係ないと思ってしまうのですが、ひとりの宣教師が未伝の地に遣わされるにはたくさんの人が自主的にかかわることが必要なのだと知りました。使徒の働きの箇所でパウロが牢屋にいるときにパウロと教会が祈り合っていたところから、神様は祈りによって何もないところから御業を起こしてくださるということを知りました。また、調和についても学びました。6章では人が集まるところには何かしらの対立ができますが、一致をあきらめないで祈り求めていくときに神様が働いてくださって福音がますます広がっていくのだと知り、神様の恵みの可能性を見くびってはいけないと思いました。パウロのところに出かけて行ったアナニヤのようにたとえ自分にとって心地よいところから出ていかなければならない時も、御心に従うときに神様は大きな喜びを与えてくれるということも知りました。
 イザヤ書42章から神様は私たちのことを誇りをもって「わたしのしもべ」と呼んでくださり、私たちの手を引いて一緒に歩んでくださろうとしていることや、それにもかかわらず神様の方ではなく自分ばかりに目を向けている私たちは盲目で耳の遠いしもべなのだということ、また本当のしもべはイェス様であって私たちはそのあとに続いていくものであるということ、つまり「勇気・謙虚・あきらめない心」という神様の性格を身に着けるということを学びました。確かに私は自分の能力の小ささや自分の見栄などに気を取られているのではないかと感じると同時に、悔い改めて神様に目を向けるときに神様は憐れみ深い方だと気づくことができるのだと知りました。
 このカンファレンスを通して自分が今できることは何かを常に考えさせられ、また宣教に対する6つの関わり方があることを知りました。祈ること、送り出すこと、それぞれの宣教地に行くこと、宣教師を受け入れること、周りの人を啓発すること、学ぶこと、の6つです。私は今回「学ぶこと」が関わり方としてとても印象に残りました。それは宣教地の文化や歴史的背景を知ることはもちろん、何が必要とされているかを知ることでもあり、さらに学校でしっかり学ぶことや神様が何を考えていらっしゃるのかを日々聖書から知ることでもありました。そしてこのようなカンファレンスに参加することも「学ぶこと」につながると知り、宣教師になれというはっきりとした召しをいただいていなくても今できることとしてさまざまな集会に参加することは決して神様の前に無駄ではないと知りました。
 今回、海外のクリスチャンの友達が与えられたことも感謝します。インターナショナルナイトというプログラムの中でそれぞれの国のために祈る機会が与えられました。アジアの方々が日本のために祈ってくださっている姿を見て、福音によって私たちはさまざまな壁を越えて一緒にいることができるのだと知りました。また、私のつたない英語に一生懸命耳を傾けてくれる友達の姿から、言語を学ぶというのはその言語を話す人に寄り添う隣人になることだと昔聞いたことを思いだし、強く実感しました。今おかれている場所で自分ができることはたくさんあることをいつも覚えながら日々の生活を過ごしたいです。

神様に目を注ぐこと  松村 栄恵

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 3年前にマレーシアでAFMCに出席した時から、今回のマニラAFMCに出席したいと願っていました。3年前は日本の仕事を辞めて、バングラデシュの病院で働くために向う道中での出席でした。それを思うと、今回、シンガポールの聖書学校からフィリピンでのAFMCに出席することになったことは、この3年間の神様の導きの軌跡を見る思いです。この3年間、想像を超えるような困難の中であっても、いつも静かに底から支えて下さるような神様の恵みの確かさを知らせていただきました。今回マニラAFMC出席中にそれを思い巡らし、振り返って感謝の思いに満たされました。
 今回は、学期末の忙しさに加えて、考えなくてはいけない課題を背後に置いての出席でした。初日、まだ心が静まらない状態で出席した私を捕えたのは、イザヤ書6章でした。神である主の前に畏れおののいて座り、その主に扱って頂くこと、主の召命はその後に来るのだ、ということを語られました。聖書学校後の歩みについて祈り求めつつも、私に語られたのは、『あの計画でもこの計画でもなく、まず、あなたの王である主の前に畏れおののいて座りなさい』ということでした。私はこの語りかけによって本当にほっとし、嬉しく解放された思いでした。たとえ色々なことが未定でも、私を造られた神様、救い主イエス、共に歩かれる聖霊なる神様は変わらないこと、それだけが大事なこととなりました。AFMCの前半は、このように聖書から、また兄弟姉妹との交わりと祈りの輪から語られる神様の愛の表現を喜び、楽しみました。AFMCの後半には、アジア宣教に携わる兄弟姉妹と語り合う貴重な場も与えられました。神様のために静かに地道に歩むアジア人兄弟姉妹と出会うことは、大きな励ましたでした。最後の空港での数時間でも、ある島で福音を伝えるために働く姉妹と語りあう時が与えられました。
 また、日本人参加者たちとの出会いによって、彼らの中にも展開されている神様の宣教の働きを見せていただきました。地元で、学校で、職場で、教会で、日本を愛し、友情と尊敬を通して人生をシェアし、イエス様を証詞する姿。そういう兄弟姉妹の姿に、本当に心が温められ、希望と喜びが与えられました。この会期中、日本のために宣教師になりたい、と話しかけてこられた多くのアジア人兄弟姉妹がありました。日本のために涙を流して祈っている姿を見ました。日本とアジア各国の歴史、今も強く残る傷を思う時、この兄弟姉妹は、十字架の血によって相手を愛することを選んだ姿であることを知ります。
 神様との交わりなしに宣教はないこと、神様への祈りなしに神様との歩みはないこと、それを強く指差された大会でした。その交わりの中で与えられる一歩一歩に、忠実に従っていく者でありたいと思いました。
 期日直前の申し込みを受け入れて下さったAFMC本部と、交わりに加えて下さったOMF日本チームに心から感謝いたします。

AFMCに参加して  朴 哲男

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 今回のAFMCには自分の行っていた教会出身の元宣教師の先生からの紹介で参加することになりました。英語の理解には予想以上の苦労をし、メッセージは英語の分かる先生方に通訳してもらう形で聞くことになりました。メッセージではどんなに苦しい状況にあっても神様に従うことができるかというのが全体のテーマだったように感じ、そのために多くの宣教師達の例が用いられていました。家族を福音を伝えていたがために殺されたにも関わらず、なお福音を伝えることをやめなかった女性の例などその他多数の大きな困難の中でさえ神様に従うことを止めなかった信仰者達の話を聞きました。私は今、洗礼を受けようとしています。約15年神様を信じていたし、洗礼こそ受けずに20歳になりましたがいつでも受けていいかなと思っていました。けれど具体的に言うことはできないですが信仰を試される問題が自分の前に現れました。宣教師の例と言わずともある程度人生を生きた人から言わせればもっと大きな艱難がこれからの人生にあるのかもしれないですが自分はその艱難においてさえ神様に従うことがいかに難しいことなのかということを感じています。神様に従い抜くことで最後には祝福があることを頭では理解していても心がついていかないことがあり、今まではあったどんな時であっても自分は神様に従うことがなんだかんだでできるのではないかという微かな自信は無くなりました。そして宣教師の例が神から与えられた信仰でなければ成されないことを、人の心が困難な状況においていかに弱いかがわかり、今になってフィリピンで与えられたメッセージを振り返り、洗礼に向けて神様に祈っていかなければならないことを感じています。そしてこれは神様が洗礼を前にして、自分が神様と向き合うために与えられた試練なのかもしれないと思っています。

AFMCに参加して  有田 美榮子

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 第7回アジア。フロンティアミッションカンファレンスに参加しようという祈祷会での広告を見た時から行ってみたいという気持ちがでて、8月の終りごろいよいよ締切も間近になり、私の年(67歳)で参加してもよいだろうかと思い切ってこの6月にイエスさまを信じ来年1月に受洗する息子と参加した。4日間びっちりとしたスケジュールの御言葉に集中する時、主のわたしへの語りかけを体験できて心より感謝している。こんなに多くのアジアのクリスチャンが一同に集まってる集会は私にとって初めての経験でまさにアジアで宣教がいかに各国また相互間で積まれているか目の当たりにしてもっと祈らねばと思わされた。また仏教国、イスラム教についてももっと知らなければいけない(日本においてあまり感じていない状況もあり心がそこに行かない)、現実の国々の内部で不安定な政情にあり祈ってくださいと切実に語られ、具体的に祈ることを示されました。日本から16名の若い方々と共に寝起きし楽しい時を持てたこと有難うございました。また荒川先生ともお会いでき、ご活躍を見て感謝でした。自分に与えられた役割をもって主にお仕えしようと思いました。菅家先生、西村先生有難うございました。

ザ・ゴスペル  平野 創也(その1)

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 フィリピンで開催された第7回AFMC(Asian Frontiers Mission Conference:アジア開拓伝道会議)に参加できた事を神様に心より感謝致します。祈ってくださった私の教会の方々にも感謝します。カンファレンスで新しい友人に出会い、約300人の参加者と共に賛美礼拝し、宣教師の先生達の説教や分科会を拝聴する事全てが私には祝福でした。カンファレンスは3日間で終了致しましたが、宣教及び伝道活動はこれからです。アジアから見れば日本は物質主義で裕福な国かもしれませんが、救済の福音を必要としているのは他国と同様です。どうかこのアジア開拓伝道に多くの方々が参加し、国々の民が神様を深く知るよう祈ります。
 カンファレンスのテーマは「Extraordinary」で、この形容詞は一般的に「並外れている」や「超越した」等と訳されます。アジス・フェルナンド先生はイザヤ6章を基に、神聖の4つの特徴を挙げました。初めにイザヤは二人の人物を紹介しています。墓地に葬られたユダの王ウジヤと、高くあげられた王座に座している主なる神様についてです。この位置的な対比からフェルナンド先生は、この地上の王権よりも上回る君主権こそが神様が持つ第一の特徴だと述べました。それに続いて、神様の第二、第三、第四の特徴である、偉大さ、遍在、そして聖さをイザヤは目撃する事になります。これらの特徴を備えた神様が余りにも人間の汚れた性質から離れている存在だった為、イザヤは「私は、もうだめだ」と6章5節で自己否定をします。王座に座す神様の御前で、イザヤは自分と神様の大差を感じたのだと思います。以前の私は、イザヤとは救い主を預言した偉大な人物で、そして神様は罪人が救われる事を望む慈愛の方だと、狭い視野でしか神様やイザヤの事を理解していませんでした。神様の本質について学べた事は新たな発見でしたし、今後神様について証しする上で貴重な経験でした。
 神様の超越的な存在を信じる事で人は想像以上に成長します。その例として先生方は多くの証しをしてくださり、その内の一つはフェルナンド先生と同じキリスト教団にいたスーリ・ウィリアムズさんについてでした。当時は内戦中で教団の一員が亡くなり、ウィリアムズさんが派遣されていたスリランカ北部では電話も繋がらない程事態は悪化していました。ウィリアムズさんの帰りを待つお子さん達の為にも、現地から避難するよう勧告の手紙が教団から出されたのは当然の成り行きでした。しかし数日後の彼の返事は勇気と平穏に満ちていました。一番安全なのは神様の意思の中心部だから、人々をこのまま戦場に置いて行けないとの事です。戦争経験が無い私にとっては理解し難く、否定するのも難しい内容でしたが、この証しを通して先生が仰いたかったのは命を粗末にする事ではなく、神様に従い生きるウィリアムズさんの信仰告白です。イザヤ6章3節に書いてあるように、神様は全てを治める力を持つ「聖なる、万軍の主」であり、「その栄光は全地に満」ちていたから、ウィリアムズさんは戦地でも勇気と魂の平和を見出してたのかもしれません。
 説教の要点だった偏在と聖さは、カンファレンス前日に起きた出来事を私に思い出させました。職場から空港へ向かう途中、予定時刻よりも遅れた特急電車に乗っていた私は不安と焦りで祈っていました。そして特急電車の窓の外を見ると、建物の数が減って広大な黄金色の農地と所々にまだ青々と茂る木立が見えてきました。空一面に広がる灰色の千切れ雲の切れ目から差す陽光が眩しかったです。これらの自然の営みを支配する神様は今何を望まれているのかと考えさせられた時、先程の私の祈りには罪の告白が欠けていた事に気付きました。会社に休暇届を一部出し遅れた事、時間通りに退社する準備を怠った事や、時間に余裕が持てる航空便を予約しなかった事等、自分の計画性の無さが次々と照らし出されました。空港に着いたのが離陸1時間程前でしたが、幸いにも搭乗できました。神様は目的の為には不可能を可能に変えられる力をお持ちだという事、そして神様が創られた自然の聖さの前に罪は隠せない事を2点、カンファレンス中に再確認しました。  「その2」へ続きます ⇒

ザ・ゴスペル  平野 創也(その2)

← 「その1」よりの続きです
 イザヤは自分の罪深さを自覚し自己を否定しましたが、それでも神様に赦されます。神様の使いのセラフィムは6章6節でイザヤのもとに、火ばさみで燃え盛る炭を祭壇の上から持って来ました。元々祭壇とは生贄が捧げられる台なので、イザヤが赦される為の犠牲を神様は厭わなかったと、フェルナンド先生は指摘しました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と、イザヤは自分を赦してくださった神様への信仰を表明しています(イザヤ6:8)。こうして罪の汚れから聖められたイザヤは預言者として新しい人生を歩み始めます。宣教及び伝道活動を始める前にはまず神様の性質を理解し罪を赦して頂かないと、準備不足は神様の御名ではなく自分自身を称える事になってしまいます。私はイザヤのように人生を神様に捧げるというより、自分自身の休養の為にフィリピンへ行くという意識が強かった事を痛感し、反省させられました。
 私にとって励みなのは、私のような一般人でも実行できそうな範囲で宣教のお手伝いができる事でした。手伝いの例としては、証しをする事、宣教師に付き添う事、宣教又は宿泊の場を提供する事、集会に参加するよう周囲に呼びかける事、祈る事等、沢山挙げられました。他にも未信者や異教徒と友好を深める事も宣教活動の一部です。聖書の御言葉を伝えるのは重要ですが、時にはそれが難しい事もあります。法律で宣教が許可されていない国もあれば、別の宗教の観点から聖書を読むと誤解が生まれてしまう事もあります。イエス様が弟子達や一般人と共同生活を送られたように、普段の行動や会話を通してイエス様の生き方を真似る事ができます。信者だけでなく未信者や異教徒と共に食事をする事、社会的並びに宗教的偏見を捨てて平等に接する事、他人の話を拝聴する事、専門用語ではなく一般用語を用いて会話をする事、謙遜に仕える事、共感する事、悩みや弱みを打ち明けて自分の弱みをさらけ出す事も、共に生きて支えあう人間関係を築くステップになります。最近では留学生や海外で働く労働者が日本国内でも増え続けているので、日本語のサポートや食事会の招待等で新しい友人をつくる事も宣教のきっかけになります。こうした小さなステップにより、後になって未信者の方がキリスト教に興味を持ち始めたりする結果になる事もあります。いつか時が来れば私達に内在する原動力が神様の愛だと証しする事も可能です。
 1日で他人と友好関係は築けるものではないので、辛抱強さと謙遜、そして神様への従順さと祈りが必要になります。人間同士、価値観の違いや争いがあっても不思議ではありませんし、時には投獄や殉教も起こります。それは悲しいことと同時に、長期的な進展のきっかけにもなり得ます。ステパノの殉教後、信者達は地方へ散らされ、宣教活動範囲が拡大されました(使徒11:19)。ヨハネの兄弟ヤコブの殉教後、ペテロはヘロデ王により投獄されますが、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続け」ました(使徒12:5)。ある仏教国で働いていた女性宣教師の証しによると、彼女は夫を殺され、教会の屋根が燃やされ、新しい教会堂も爆破される等、何年に渡って恐ろしい迫害を体験しましたが、それでも神様の召しに従い続けた結果、仏教寺院の一部が宣教活動の場として許可されたそうです。同じ信仰を持つ信者が少ない現地では予期せぬトラブルも起こり得るので、宣教師を送り出している教会全体の祈りと支えが必要です。
 イザヤは罪を赦された後、預言者としての召しを授かりますが、その後のイザヤの人生は楽なものではなかった筈です。預言者として召されたばかりのイザヤに神様はこう告げます。民はイザヤの預言を聞き入れず、木々は倒れ、町々は滅び、その中の切り株のみが聖であると、イザヤ6章9節から13節までに書かれています。今でこそ救い主誕生の預言は真実だと認められていますが、イザヤと同時代を生きた人々の多くは恐らく信じなかったか、注意を払わなかったかもしれません。
 ですが真の祝福は神様のいる天にあります。天の御座の前でイザヤが赦されたように、私も罪から解放されました。私はこのカンファレンスの証しをする事に対して初めは戸惑いました。なぜならカンファレンスは全て英語でしたし、半分は旅行気分でカンファレンスの参加登録をしていた為、心構えの足りなさや、英語と聖書の勉強不足が身に染みて、私には証しする資格が無いように感じたからです。それでも神様は、カンファレンスの講師の内の1人として働いてくださったパトリック・フン先生の例えを私に思い出させてくれました。救いの福音を他の人と分かち合うのを拒むのは、砂漠でオアシスの在り処を知りながら誰にも知らせないのと同じ位の重罪だと先生は仰いました。フィリピンでの経験を私だけに留めるのは勿体無いです。会議の副題が「熱意を持って神様の目的を生きる」とあるように、普段の生活を通して神様の愛を実践し、信者や未信者の方々と共生するのは私にとって挑戦でもあり、目標でもあります。本当に「Extraordinary」なのは、神様が私や他の方々にもそれを実現させてくださるという事だと思います。

AFMCに参加して  古川 拓磨

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 参加を持ちかけられ、海外経験ができるというその程度の理由で承諾し、はじめはそれほど重大に考えてはいなかった今回のAFMCでしたが、参加前に祈り続けていくうち、自分がどれほど大きな使命を与えられているかに気づかされてゆきました。参加する機会を与えてくださり、出発前から会議中、また帰国まで全てを導き、守ってくださった神様の御名をたたえます。
 私が会議中に参加したワークショップの主な内容は宣教が認められていない国々への働きについてでした。その中で、講師の方々が口を揃えて言われていたことは、宣教地へ宣教師として行くことだけが宣教の働きではない、ということでした。それはつまり、伝道だけでなく、いろいろな方法手段を通して宣教に関わり、手助けできるということです。具体的に言えば、医療面、精神面、経済面でのサポート、言語や文化の学びのサポートなどです。私のような学生であれば、祈りということでサポートができます。
 アジアの一部でお生まれになったイエス様の教えが世界中を巡り再びアジアへと帰ってきているこの流れに、私自身これから何らかの形で参入あるいはサポートしていくことができればいいなと思っています。そのためにまずは今使わされている場所においてできることを精一杯していく、そのことが重要だとも会議の中で言われていました。日々の生活(私の場合ならば学生生活)を丁寧に生き、教会生活や祈りをおろそかにしないこと、それが将来への働きのため整えられていくために必要です。いざ神様からの御声がかかったときに「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言うことができるためにこれらを常に心に留めておかねばなりません。
 ほんの数日という短い間の会議でしたが、世界各国からの重荷を持った方々と交流でき、大変に祝福されたときとなりました。日本でも国内外に関わらず神様のために働く召しをもつ人々がますます起こされていくよう、祈っていきたいと思います。

7th AFMCに参加して  有田 省造

10月31日-11月3日、フィリピンにて第7回目となるアジア・フロンティア・ミッション・カンファレンス(AFMC)2013が行われました。数年に一度、OMFのアジアホームサイドが主催して行われる宣教大会がAFMCです。ずっと続いてきたAFMCも今回で最後となりました。アジア諸国から300人を超す参加者があり、日本からは16名参加しました。宣教についての聖書からのメッセージとアジア各地で行われている宣教の最前線の報告や分科会が行われました。「情熱を持って神の目的に生きる」というテーマで、それぞれの立場でどのように神の宣教に参加していくかチャレンジを受けました。西村信恵

 7th AFMCに参加してちょうど1か月。この会議への参加は、私にとって、貴重な体験となりました。まず、「We speak to Nations」、や「Lord, you are good」などのworship song が私の頭は未だにぐるぐると廻っており、国境、世代を超えて、神様を礼拝することの素晴らしさ、何にも代えがたい喜び、祝福でした。The kingdom is coming near to you というフレーズが気に入っていて、まさに王国が迫ってくるという感覚でした。
 私は、今年5月から教会へ行きはじめ、まだ洗礼は受けていない身でありますが(現在洗礼準備会中:2014年1月19日に受洗予定です)、クリスチャンの両親の薦めもあり、母と二人で参加することになりました。私にとって、海外での宣教ということを考えたこともなかったのですが、知人や地域の人たちにどうやってイエス・キリストの福音を述べ伝えていくか、教会のコンサートの案内を配りながら考えていました。身の周りにどうやって伝えていくかが課題で、海外のことまで考える余裕がなかったのです。
 しかし、メッセージやワークショップを通じて、宣教は海外へ行って働きかけをすることだけでなく、祈ったり、海外の宣教師をサポートしたり、他国のことを学んだりと、多岐にわたることを知りました。
 私に何ができるだろうか。
 世界ではメジャーなキリスト教ですが、日本にいると、このアウェイな感覚は一体何だろう。日本人として育つと、ついつい周りに合わせることが身についてしまっている。
 どこのメッセージ箇所か思い出せないのですが、「砂漠の中に泉があることを教えないことは大罪である。」と聞きました。この言葉を忘れないようにしたいと思います。
 また、宣教には、苦難が伴うことも学びました。日本という平和な国にいると、平和ボケというか、どうしても体が楽な方へ、楽な方への流れてしまいがちです。生活に刺激を失い、チャレンジ精神を失っていきます。
 苦難を乗り越えることで、道が開かれると教えられ、苦難とはなんだろうと考えました。
 私の20代、30代は、病気の苦しみ、資格の勉強や失業など、それなりにピンチも多かったのですが、宣教されている方の話を聞いているうちに、何か違うものを感じました。それは、やはり、神様の御心にかなった生き方をしているかということだと思います。
 そして、苦難の中で喜びに満たされると教えられました。「主を喜ぶことで、私たちも喜ぶ。喜びがなくなると、力もなくなってしまう。」いつも、神様の恵みのなかにいることが大切です。
 この会議で学んだことを日々の生活に生かし、実践していきたいと思います。
 主催のOMFの宣教師やスタッフの方々、本当に有難うございました。
 300名近い方が、集まったので、個別には、数名の方としかじっくりお話できませんでしたが、皆さまのご健康、ご活躍をお祈りします。
 2013年12月9日

東南アジア訪問の機会をいただいて  松村 栄恵

「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。
 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。」 詩篇116:12-13

 私は以前、南アジアで医師として働いていました。帰国後も、医療と福音の届いていない地域でイエス様の弟子として歩ませていただきたいと願っていたところ、今回の東南アジア訪問の機会をいただきました。訪問したのは、都市貧困層のために働いている兄弟姉妹のグループでした。クリスチャンが配慮して活動するべき地域のため、事前にメールで働きの詳細を知ることはできませんでした。どのような2週間になるのか想像がつきませんでしたが、きっと神様が目的をもってこのグループに導かれたのだと信じて渡航しました。途中で銀行のATMカードが機能しなくなるというアクシデントもありました。手持ちの現金が残り少ない状態で経済的必要をいかに真剣に神様に頼るか試されました。その応えとして、宿泊と食事を引き受けて下さる一家が与えられました。生活の基本が揺るがされたときにも、祈り求めて一歩ずつ歩むことを学ばせていただきました。
 訪問したグループの大きな目標は、キリストの愛によってコミュニティー全体が変えられていくことでした。6年前に始まった比較的新しい働きですが、それぞれが専門性を発揮し、創造的で誠実な歩みをしています。小さなチームですがお互いを良くケアし助け合いながらキリストの体として麗しいチームワークを築いていました。プロジェクトそのものだけではなく、ある御夫妻は自ら路地裏に住み、子育てをしながら、近所の人達の間で暮らしています。自分達の居心地良さを捧げ神と人に仕える様子は、とても自然で明るいものでした。たとえばトイレが壊れた時、これも宣教の働きだ、と鼻歌を歌いながら汚い仕事を引き受けて喜んで修理するご主人の姿に、心から頷き感動を覚えました。
 地元のクリスチャン女性が神様に動かされて始めたスラム街での働きを見学させていただきました。イエス様の後ろをついていくのよ、と夢中になって飛び回っている方でした。無料診察のお手伝いをしたとき、ある結核の患者さんが、呼吸が苦しいにもかかわらず笑顔で両手を合わせて感謝を表されました。ああ神様、この人たちにどうやって福音を届けるのでしょうか、という祈りに導かれます。
 医師であるワーカーの一人は、地元の医師達との友情を通して、彼らが成熟したクリスチャン・プロフェッショナルとなり自国で神と人に仕えるように励ましています。一対一の友情を築くこと、それを通してイエス様を伝えること、そしてクリスチャン同士が励ましあって御国を建設していくことの大切さを再認識しました。
 最終日に出席した地元クリスチャン医療者達の集まりは、本当に深く私の心に残りました。首都には高層ビルと巨大ショッピングモールが立ち並び、先端医療を追いかける病院が多数ある反面、この国は医療過疎地域の膨大なニーズに直面しています。その不均衡に心を痛めたクリスチャン医療者達が、国内医療宣教師を育てるプログラムを作っていることに驚きました。僻地に立つミッション病院に若い医師を派遣し、そこで働く医師達の姿を通して、医療・宣教の両面で訓練される3ヶ月のコースです。自分に与えられた資格と技術を神様にささげ、自国の人々の必要のために仕えること。それを実習と祈りを通して学ぶ時です。この訓練コースを卒業した後に、国内宣教師として僻地医療に出かけていく医師達が生まれています。アジアのクリスチャン達が、恵みを受け取るだけではなく、自ら宣教師として出ていく時代であることを目の当たりにしました。
 今回の訪問は私にとって、アジアにおける人々の魂と医療のニーズを広く知らせていただく意義深いものでした。今年からアジアの聖書学校で1年間学ぶことを予定しています。今はまだ具体的にわからない今後の道も、必ず神様が備えて下さることを信じ歩ませていただきたいと願っています。

隣人となる宣教  岡谷 和作

2013年1月10-16日、3人のKGKの学生、OBが菅家庄一郎総主事とともにカンボジア学生を訪ねて来ました。その時の証しです。それぞれが神様から教えられ、チャレンジを受け、主にある良い交わりの時が持てました。OMF日本委員会主事 西村信恵

 何千人もの人々が命を失ったキリングフィールドに立って、言葉を失った。「神が愛ならなぜ。。。」あの場所を訪れれば、どんなに敬虔なクリスチャンでさえも神に問わずにはいられないだろう。そしてこの問いこそが、カンボジア宣教が直面する一つの大きな壁になっている。表面上は明るく、気さくなカンボジアの人々も、心の中の傷は未だ癒えていない。同居したFESスタッフも、親戚はみんな殺されて父親だけが生き残ったと語ってくれた。このような話は珍しくは無い。親を殺された子供達、そして殺した側の親を持つ子供達がカンボジア中に大勢いるのである。そんな環境で育った子供達は人を心から信頼し、自分を明け渡すことが難しいと言う。そんな彼らの痛みを理解せず、ただひたすら「神は愛です」と語っても彼らの心には届かないだろう。この「なぜ?」という問いはカンボジアだけでは無く、世界中で問われている問いである。被災地支援のボランティアに行った際も、至る所でこの問いが聞こえてきた。今この瞬間も、世界中で理不尽な苦しみの中痛みを覚え「なぜ?」と問うている人々がいる。その問いに対して私達クリスチャンはどう答えるべきなのだろうか。
 私達は何かが起こるとすぐその理由を探そうとする。苦難がもたらす「なぜ?」という問いに対してすぐに答えを見出そうとしてしまう。しかしカンボジアで、人々の痛みに寄り添いながら共に歩もうとする宣教師の姿、教会の姿を通して大切な事を教えられた。宣教とは御言葉を語ることから始まるのではなく、真に隣人となり愛を示して行く事から始まるのだと実感する事が出来た。それはイエス様自身の宣教方法に見られるものである。イエス様は兄弟を無くして悲しむマリヤとマルタと共に涙を流された。変に励ましの言葉をかけたり、安易に悪の問題の答えを探すのではなく、まず共に涙したイエス様の姿勢に学ぶ者でありたいと思わされた。近年よく耳にする「Wholistic Mission」という言葉さえも、伝道のための一種の戦略のように捉えてしまっていた事を悔い改めさせられた。その国の文化を共に楽しみ、その国の持つ痛みを共に痛む事なくしては、キリスト教が本当の意味でその国に根づく事は無い。私達はキリストを宣べ伝えるために隣人を愛するのではなく、隣人を愛するがゆえにキリストの愛を伝えるのである。その順序が逆になっていないか、いつでも自分自身に問い続ける必要を感じた。宣教の現場で「隣人となる」という事の必要性を肌で実感する事が出来た貴重な一週間だった。

カンボジア短期宣教ツアーに参加して  林 輝美

2013年1月10-16日、3人のKGKの学生、OBが菅家庄一郎総主事とともにカンボジア学生を訪ねて来ました。その時の証しです。それぞれが神様から教えられ、チャレンジを受け、主にある良い交わりの時が持てました。OMF日本委員会主事 西村信恵

 ほかの国々のために祈るとき、難しさを感じることが多くありました。宣教地の話を聞き、写真を見ても、やはりどこか遠くのことのように感じられるのです。短期宣教ツアーに参加した理由の一つは、日本にいてはわからない、貧困や社会の様子、その国の人々が置かれている状況を知りたいと思ったからでした。カンボジアでの6日間は、そのような私にとってさまざまな意味でとても良い時間でした。カンボジアの町の様子を見たり、学生グループと交わりを持ったりするとともに、カンボジアの社会や教会の置かれている現状、抱えている課題を教えていただきました。
 学生グループとの交わりの中で、私自身はあまり積極的に彼らに話しかけたりはできなかったのですが、ともに賛美し、同じ主を礼拝することができたのは、本当に感謝でした。また日曜日に訪れた教会や、カンボジアで出会った方々がとても温かくもてなしてくださって、感謝しています。自分の語学力の足りなさを非常に感じましたが、それでも交わりを持つことができること、互いに祈り合えることに大きな励ましを受けました。
 この国の抱える大きな問題の一つとして、カンボジアの人は互いをほとんど信用しない、そのためにカンボジア人だけで交わりを築いていくのはとても難しいと言うことを聞きました。崩壊した家庭も多いということでした。数日間、いろいろなものを見聞きしている中で特に思ったのは、ポル・ポト政権の時代の大きな傷跡が残っていて、この国はまだまだ回復の途上にあるのだということでした。そんな中でも、信頼し合える関係があったり、救われる人が起こされていたり、クリスチャンの交わりが持たれていたりするのを見るときに、神さまは確かに働いておられるのだと感じました。人を用いて、時間をかけて。そうやって人や教会を導かれるのが神さまの方法なのだろうなと思いました。
 今回の旅行で一番衝撃的だったのは、ポル・ポト時代に虐殺のために用いられた施設と、虐殺した人を埋めていった場所に訪れたときでした。国民の約3分の1が殺されたと言われ、だれであろうと、赤ちゃんでも殺していった兵士たちの話。なんとかして生き延びようとした人々の話。聞いたこともない悲惨な出来事がカンボジアで起きたのだということを知り、何も言えなくなりました。目を閉じ、耳を塞いで逃げ出したくなるような現実でした。なぜこのようなことが起こったのか、人の心の中にあったのは何なのか。それを思うときに、だれもが持っている心の闇とこの世ではたらく暗闇の力、それに対する人の無力さを思わされ、それらに打ち勝つキリストの福音の必要を強く感じました。
 日本に目を向けるときに、さまざまな点でカンボジアとは違っていても、課題を抱え、心に闇を抱きながら生きる人たちがいることは同じだと感じます。日本でも、神さまはどこにおられるのかと言いたくなるような悲惨な出来事があったり、クリスチャンとして生きていくということが非現実的に思えるような状況があったり。そのような中でも、神さまを知っていて、神さまの愛が注がれていることを知っている、そのことが感謝だと思うのです。人は、福音がなくては、ただ滅びに向かっていくだけの存在であることを思うとき、カンボジアでも、日本の社会の中でも、福音が広まっていくことが必要だと思います。
 今回の旅行を通して、神さまを知っているクリスチャンとして、神さまの存在と神さまの愛を示していきたいと思うようになりました。私自身が遣わされている場所で、神さまに対して忠実であること、人に対して誠実であること。そうして、神さまの栄光が現されていくことを願って、またこれからの生活を送っていきたいと願っています。また、カンボジアの社会、そこで生きる人々のためにも、教会や交わりの抱えるさまざまな課題についても心から祈っていきたいと思います。遣わされている場所も状況も違うけれども、同じ主によって召された兄弟姉妹の上に、祝福がありますように。

本物の信仰  賀屋 はるか

2013年1月10-16日、3人のKGKの学生、OBが菅家庄一郎総主事とともにカンボジア学生を訪ねて来ました。その時の証しです。それぞれが神様から教えられ、チャレンジを受け、主にある良い交わりの時が持てました。OMF日本委員会主事 西村信恵

 「神を信じるということはカンボジアの人々からすると絵空事のように聞こえる」
 カンボジアで聞いたこの言葉が私の心の中に今も響くように残っています。
 
 私はカンボジアで、多くの人たちと素敵な出会いをしました。ユーモア溢れ、もてなしの心を持つカンボジアの人たちと過ごす日々は、毎日が刺激的で楽しいものでした。しかし一方で、カンボジアの人の間に、町に、社会に今でもポルポト政権の爪痕が残っていることも感じました。一番の壁は貧困です。貧困の苦しさ故に家族を捨てる人がいる現実。子どもは学校に行けず働きにでる。物乞いをする人。不正をして当たり前の社会。海外からの支援を受けて、与えられることに慣れて自立することが困難。そのような多くの現実と問題が息を潜めていました。すべての人にあてはまるわけではありません。また私もすべてを見たわけでも、すべてを聞いたわけでもありません。ですがカンボジアはお金が物を言う社会であり、人々は良い暮らしをしたいという渇望そして執着心が強いという印象を受けました。このような生活に苦しむ人たちが、キリスト教は絵空事のように聞こえること。キリスト教は外国人のものであって、神を信じて正しく生きることはお金に苦労しない外国人だからできる。そう思うカンボジアの人の心境がわかった気がしました。カンボジアでの宣教を考える時に、お金や地位かを求めず神様にすべてを捧げる本物の信仰を持つ人が求められると思いました。
 そのようなことを経て、問いかけが一つ生まれてきました。私はどうなのだろうか。と。生活が苦しかったとしても、迫害や困難な中にあっても、どんな時でも神様を信じる本物の信仰を持っているのだろうか。いいや、違います。私だって、お金や安定した生活を望み愛していると思いました。実際に私は献金さえも喜んで捧げることができません。収入が良いときは喜べても、収入が少ないときは苦い思いをしながら捧げてしまいます。お金を捧げることを惜しみ、自分の娯楽のお金はとっておいたりします。神様のために自分のすべてを捧げたいと言いながら、自分の痛いところ、苦しむところまでは捧げないのです。神様は喜んで捧げる者を愛し、捧げたこと以上に祝福を与えてくださるというのに、そのような愛に信頼せずに私は目に見える物にすがりついて愛しているのです。カンボジアへ行ったことは、このような私の罪や弱さをきちんと直視するきっかけとなりました。
 こんな私がカンボジアの人たちに宣教をするとしたら、それは説得力のないものであり、彼らの苦しみも共に共有し共感することもできないでしょう。ただ傲慢の何者でもなく、私は何の働きをすることもできないことでしょう。それはカンボジアだけにあてはまるのではなく、どの国もあてはまると思います。そして何よりも神様を悲しませている、このような事実に私は心を痛めました。どうしたらよいのでしょうか。私自身ではこの罪や弱さに勝つことはできません。ですから、自分の手に握っている物を手放し神様にゆだねる必要がありました。神様に祈ったからといってこれからは大丈夫というわけではありません。いつでも罪を犯しやすい存在であるため、これからもずっと神様に立って自分を吟味していく必要があります。自分の握っている物をいつでも神様の前に差し出し、神様を一番にして日々を歩むことが大切になってきます。その信仰生活こそがカンボジアへ、日本へ、すべての国への宣教に繋がると思います。
 カンボジアで、素晴らしい経験をする機会を与えてくださり本当にありがとうございました。感謝して。

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